見出し画像

神田川の秘密25  中野・成願寺のドラマがすごかった

二十五 中野・長者橋近辺の異変(3)中野・成願寺のドラマがすごかった
 建物は比較的新しい。
 建物の前に5段ほどのステップ階段がついていて、上がったところに小さな青銅の釣鐘があった。建物はコンクリート壁に丸い鉄柱、瓦屋根だった。葬儀を扱っているK社の広報によると長者閣は「貸し葬儀場」として一般に利用・案内されていている。

階段を上がった左手に小さな鐘

「中野区地域での知名度が高い式場で、家族葬に適した式場です」と。葬儀社の見積もりでは利用料25万円となっているが、これだけの施設で、地下鉄・中野坂上の駅に近く、歴史のあるお寺の施設での葬儀なら決して高くはないように思える。

左手の大きな下駄箱があるところを見ると
参拝者が多いと推測できる

 間をおかず、隣接して唐門の洗心閣がある。燈篭風の五輪の石塔が有って、こちらは柱も梁も垂木も木材が使われていた。脇には3面馬頭観音像、さらにその横に茶色の木戸と続く。木戸の右裏手は居宅だろうか?本堂は敷地の正面にあって、入母屋造りの屋根に唐門がついていている。棟が高く、屋根幅も十分に有るからだろう、大本殿を思わせる。名前は大雄宝殿。分厚い板に刻まれた文字は金色で、揮毫したのは成願寺の住職さんなのか、迫力ある力強い書体だった。

五輪の塔の左手に茶色の木戸がある
塔の影に僅かに写っているのが馬頭観音像
銅像の台座に刻まれた字は
なんと書いてあるのか

 本堂の右手には石の台座に乗った銅像が置かれていたが、誰の銅像なのか、説明はされていなかった。太い錫杖を右手に、数珠を左手に持っている。長い袖を垂らし、腰を縄で結び、襟巻きをしているから韓国の僧侶なのだろうか。一見、カソリックの神父の服装に近い。台座に彫られていたのは昭和55年5月5日、草書体の見事な筆字を「瞬学義毫」と読みとった。

本殿とその前にある香炉
香炉を肩に担いでいるのは誰だろう
三人で支えている

 本堂の真ん前に青銅、屋根付きの大香炉(香炉堂)が有って、庭を挟んだ洗心閣と反対側には龍宝閣、圓通閣の堂宇が並ぶ。十六羅漢あり、六地蔵菩薩有りで、墓所には佐賀藩・蓮池鍋島家の墓がある。大名家の墓を持つ寺は中野区ではここだけだそうだ。つまり、成願寺にはなんでも揃っているのだった。

正面は龍宝堂右手は本殿、
左手に少しだけ写っているのが圓通閣

 ところが成願寺はこれだけで済まない。
 この寺の開基、鈴木九郎の物語があって、長者橋の由来ともなった中野長者の伝説がついてくる。地域の伝承もあるし、中野区の広報でも物語が紹介されている。 
 成願寺は成願寺で「寺に伝わる縁起にもとづいて創作」した長者伝説を紹介している。物語の概要を5mに及ぶ掲示板に公開していた。

檀信徒の中に揮毫家がいて数人が手書きをしている

 和歌山県熊野出身の鈴木九郎という人がこの地に住み着き、荒地を開墾して馬を飼った。千葉の市場に馬を売りに行って受け取った代金が「大観通宝」だったら、それを観音様に差し上げると約束して市場に行ったが、思ったより馬が良い値段で売れた。ところが受け取った代金の全部が「大観通宝」だったので、九郎は代金全部を観音様に寄贈した。九郎の正直な振る舞いを慈しんだ観音様は九郎を長者にしたのだった。
 しかし、悲劇が起こってしまう。九郎の一人娘小笹が病を受け、病気療養で九郎は全ての財産を失ってしまう。娘も財産も失っってしまった九郎は出家し、娘の戒名に因んでこの地に「正観寺」を起こした。正観寺は江戸時代に成願寺と寺名を変更した。云々。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?