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神田川の秘密27  窓の下には神田川・・・♫

二十七の2  窓の下には神田川・・(2)
 歌碑はまだら模様の灰色のみかげ石で、表題は『神田川』。
歌詞の一番が刻まれていた。彫り込まれた歌詞の終わりに「作詞 喜多條 忠、作曲 歌 南こうせつ」となっていて、この部分だけ黒みかげ石の版に刻まれて歌碑にはめ込まれていた。

この石碑を見つけた人が一様に言うのは
『なんでここにあるの?

 脇には「中野区認定観光資源 2014」という小さな看板が立っていた。この歌はかぐや姫のサードアルバムの中の一曲として1973年7月に発売されたが、神田川の歌が評判となり、紆余曲折はあったらしいが1973年9月にシングル版が発売され、200万枚を売る大ヒットとなった。ある年齢から上、80歳以下。この世代の多くが神田川の曲に激しく共感し、涙を流しながら歌っただろう。青春のノスタルジーに浸った中年層は多いはずだ。メロディは単純。誰にでも歌うことができた。歌っているうちに自分が南こうせつになれたし、青春時代にタイムスリップできた。
 神田川のシングル盤をヒットさせたかぐや姫は翌年の1月、「赤ちょうちん」を連続してヒットさせている。5月には「妹」を、1978年の10月には「夢一夜」と続け様にヒットを飛ばし、新フォークソング界、音楽界に不動のポジションを作っている。かぐや姫のメンバーだった伊勢正三は74年3月に「なごり雪」を、75年2月には「22才の別れ」を作詞・作曲した。

 1970年代の半ば、昭和50年前後。今にして思えば、日本が一番輝きを放っていた頃ではなかったか。高度経済成長の歪みが至る所に現れ、水俣病や四日市ぜんそく、環八スモッグと公害が人々にもたらした惨禍を、草の根の市民運動の力が押し返し始めた時期に当たる。川旅老人は30代前半で、正義感に溢れていたし、大学紛争を経験して政治にも強い関心を持っていた。南こうせつに続いてさだまさしやアリスが出てきて、胸を鷲掴みにされてしまった。吉田拓郎、かまやつひろし、岡林信康、井上陽水、サザン、中島みゆき、加藤登紀子・・・新フォークソングの全盛期に突入していた。

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