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神田川・秘密発見の旅 後編21 仙台藩の財政は火の車だった。神田川工事の費用を賄うどころじゃない

後編21  仙台藩の財政は火の車になっていた 大いに手元不如意

 政宗の時代、仙台藩の石高は62万56石5斗4升4合とされている。
(古伝密要 萱場木工氏章)
 支出については「仙台藩伊達氏は藩の禄高に比して家臣の数が多かった。支藩である一関藩田村氏に31,572石を知行し総知行高は62万159石で、通常収支で100石ほど赤字になっていた。この他に管理運営費ともいうべき「御扶持方御用穀」(御役料・お切り米という名のボーナス・藩主と家族用の御前米、仏事に供する仏事米、奥方女中渡し米、江戸御国御用穀など)を併せた支出9万3000石と金銭での支給分1万3000両が必要だった。

仙台藩には一門・・角田の石川大和、小堤の伊達藤五郎、水沢の伊達将監、
         湧谷の伊達安芸、寺池の伊達式部、岩谷堂の伊達右近、
         宮床の伊達六郎、岩出山の伊達弾正、川崎の伊達伊織、
         真坂の白川上野、前澤の三澤信濃の11家。
     一家・・片倉小十郎、石母田長門、柴田九郎など3家
     一族・・茂庭周防。
他に準一家・一族・宿老など併せて50家。
それに加えて着座、太刀上、召出、平士の都合九等があった。

 万石以上が8人、千石以上が66人、百石以上が878人、
 それ以下の給与取得者(武士=役所勤務)は2600人余。

これらの給料取りが家来などに支払う給料の内訳は、知行支給が1600人、蔵米支給が100人以上、扶持方切米の者が2000人いた。これらの人々は全て非生産部門だった訳だから、それを農家が生産する米で賄い、維持していくのは構造的にかなりの無理があった。
 官僚組織が肥大化して維持管理に費用が嵩み、仕事に人が配置されるのではなく、人を配置するために職種を増やし、無駄な仕事が増えた。
仙台藩の最高幹部は奉行で、定員6名。
役職には若年寄、評定役、町奉行、目付、郡奉行、代官、大肝入、肝入、
    山林奉行、横目付、大組頭、組頭、検断、村年寄・・・。
奥州21郡、970村、東西30里・南北60里を治めるのは車や電車、通信施設などのない時代のこと、容易ではなかっただろう。

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