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神田川・秘密発見34−(4) JR飯田橋西口の石垣は牛込御門に続く・・徳島藩・蜂須賀安房守が建設した

四十三の(4) 徳川家康は天下を取ると、諸大名に天下普請を命じた。
        大江戸の基礎は地方の大名の手で造営されていった

 飯田橋駅西口を出たまん前の通りは早稲田通りと呼ばれている。左に行けば田安門へ行き着き、右手の牛込橋を渡って坂を100㍍ほど下ると外堀通りとの交差点に出る。駅の改札を出入りする人の数は多く、早稲田通りを行き交う人も忙しげだ。プラスティックの塀に肘をついてぼんやりと景色を眺めている人はいない。人を休ませないのが東京だ。川旅老人も仕方なく動く。

江戸城は日本最大の城郭で有った
明治維新で失われたが、今に残っていれば大きな歴史遺産だった

 駅の出口すぐの左手に、小口の大きさが縦横50センチ、長さ2㍍ほどの石が置いてあった。この石は牛込門の基礎として地中に埋められていたもので、蜂須賀安房守家政(徳島藩)が牛込門の石垣工事を担当した(請け負った)証拠だと説明がされていた。なぜなら、家康に命令され、藩の資金を投入して石垣工事を請け負った蜂須賀氏が石に自分の名前を刻んでおいたからで、武人のささやかな抵抗を思った。安房守は織田信長、豊臣秀吉、秀頼、徳川家康、秀忠、家光と支え、81歳で死んでいる。関ヶ原の戦いでは東軍についた。

巨石は伊豆半島から切り出された
運搬には神田川が使われた

  徳川の天下普請は第一次の慶長11(1606)年から第5次の万治3(1660)年まで56年間にわたって繰り返されるのだが、関ヶ原の合戦で豊臣方に付いた大名はこの天下普請に何度も駆り出されている。また、伊達藩のような東国の外様大名も普請手伝いに何度も命令を受けている。請け負った藩の財政出費は大変なことだっただろう。大名は先を争うようにして天下普請に名乗り出てと言われるが、『江戸・東京の川と水辺の事典』(鈴木理生 編著)によると、

「家康は・・・天下人として全国の大名の上に君臨し、その年(慶長8年、1603年)から数えても57年間にわたって、徳川将軍家の権力を天下普請の名で行使して、大都市江戸を建設した」と説明されている。

また「家康自身も織田信長・豊臣秀吉に命じられた天下普請にさんざん苦しんでいる」と併記している。権力者へ忠誠心を示すには「喜んで」普請を請け負う必要があったのだろう。

取り壊される前の牛込御門

この天下普請が「通算して70年間、連続的に建設が行われたのではなく、5回の天下普請(一回の期間は約二年)で断続的に行われた点に特徴があった」と書いている。これには実に深い訳があるのだが、それは後の仙台堀のところで触れることにする。
 蜂須賀氏が担当した石垣工事跡は飯田橋駅西口前の石積みにきれいに残っている。使われた巨石の運搬も大変だったろうが、神田川の水運があればこそだったはずだ。石積みの幾何学的な見事さはいうに及ばないが、この石垣、飯田橋駅の構内、市ヶ谷寄りプラットホームからも見ることができる。石垣と大きな礎石。石組の見事さだけでも大したものなのに、これらは牛込門の一部であったというから、江戸城総体がいかに威厳を持った堅固な城であったかということが容易に理解できる。
 城はまた、江戸の町総体の一部をなしていて、濠や川や上水・下水が一体となった都市計画の中にあったという凄さも理解できる。幕末、大砲というものが現れて、戦争の形が一変すると、濠や塀や、門、城壁は防御力を失っていった。

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