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神田川の秘密 スチュワーデス殺人事件 逃亡する神父 逃げ切るか?

十八の2 スチュワーデス殺人事件(5)逃亡する神父

 更に、婦人公論1959年7月号の「神父論」、同じく8月臨時増刊号の「スチュワーデス殺し」論(松本清張)と続く。1959年6月14日号の週刊明星はかなり刺激的なタイトル「V神父のアリバイ」という題で4ページを割いて事件顛末を詳細に報じている。警視庁が極秘に身辺捜査をしていたV神父の名がマスコミに流れたのはNHKの特別番組『日本の素顔』ー在日外国人ーの報道で、横浜入国管理局に張り出されていたV神父の顔写真が公表されたためであったことにも触れている。V神父の顔写真、下井草のS教会の写真も添付されている。

読売新聞 昭和34(1959)年6月13日・夕刊

 読売新聞の外報部奥山記者はロンドンの欧州総局への赴任命令を受けて乗っていた飛行機に、ベルギーに帰国する途上のV神父と偶然隣り合わせとなった。正式に取材を申し込み、奥山記者とV神父との一問一答がレポートされた。『東京ーパリ・空の旅30時間』と題する記事はV神父が帰国に至った理由に触れている。

奥山記者「突然の帰国は自分の意思からですか?」
V神父「わたしの意思というよりは、所属している教団の命令です」
奥山記者「命令の根拠は?」
V神父「わたしの胃病のためもあるが、老衰した両親の見舞いも兼ねてのものだ」奥山記者「また日本に帰る気持ちはありますか?」
V神父「できたら、ニ、三か月中に戻りたい」
 機内での神父は落ち着いた態度だったと報じている。
 しかし、V神父は2度と日本に戻ることはなく、事件は社会的に多くの問題を投げかけただけで、迷宮入りとなり、昭和49年(1974年)3月に公訴時効となっている。

 多くの人々が不審に思い、文化人や評論家、作家が憶測したのは「警視庁の重要参考人であった V神父がなぜ易々と帰国・出国できたのか」だった。戦後間もない時期(終戦から14年、サンフランシスコ平和条約締結1951年9月)で外国人神父の捜査が難しかったことを理由にしている論調が多い。
 政府関係の高官、それもかなりの地位にいる人が黙認するように手配したという説もある。いや、当局が内々に神父又は教団に帰国を慫慂(ショウヨウ)するというヒントがなされたのではないかという見方もある。
 6月16日読売新聞夕刊では「捜査本部引き上げー新事実の見通しなく」という見出しで、「来週早々にも本部員を警視庁に引き上げることになった」いう捜査本部の声明を記事にしている。この時、同時に荒川の通り魔事件(1月21日から27日、荒川区三河島で18人の婦女子が連続して刺された事件)の捜査も縮小、「これで二つの事件は事実上解決を見ずに(捜査本部が)解散されることになった」と報じている。

朝日新聞 昭和34年6月12日 夕刊

 この事件は、1974年(昭和49年)3月10日に公訴時効となったが、それで終わりにはならなかった。


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