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神田川・老人の秘密 鴨の心

十四の(2)鴨の心はいかに

 佃橋から高井戸橋を越え正用下橋まで来ると、神田川は南東へと緩やかにカーブして井の頭線から離れていく。これから先は近隣駅を区切りにして往復するのは難しくなりそうだ。それにしても正用下橋という名前は変わっている。

こういう時の最良の手引書が手元にある。『神田川再発見ー歩けば江戸・東京の歴史と文化が見えてくるー』(東京新聞出版局)がそれだ。その解説には「旧上高井戸村の小字”正用”による命名。正は庄司(荘園を管理する役人)からの転用でその下の雑役をしていた人々が用。つまり『地方の役人の元で耕作していた者の田畑』を指す。下は下流部の意」と案内されている。用がそういう意味を持っていたとは意識していなかったが、用務員は「学校や会社などで雑役をする人」(大辞林)で、今でも時々耳にする。

神田川の土手は下がれば下がるほど高くなる
さらに鉄柵も加わって人との距離ができてしまう。
しかし、鴨は悠然と泳いでいる。

 確かな川に成長した神田川は両岸のセメント壁に攻め立てられているが、壁は川底に近くなると1メートルほどの緩やかな石積みがあって、気持ちが少しだけ和らぐ。その石の上で毛繕いをしている鴨のつがいを見かけた。首を思いっきり右側に向けて相手の鴨に優しい目をやっているのは旦那の方だろうか、奥さんの方だろうか。鴨に聞いてみたいが、遊歩道から川床めがけて大声出すのは憚れる。

鴨がいるということは餌になる小魚がいる証明

 その少し下に池袋橋があって、流れが瀞になっている深みに鯉が姿を見せていた。上流で見た鯉より更に太っていて、1貫目では足りないだろう。黒、濃灰色の魚体が多い。そこへ割って入って来た緋鯉が一番の巨体だった。悠然と泳いでいると思ったのは誤解で、しばらくすると、鯉があちこちから集まって来て群れをなし、水面に大きな口を開けて遊歩道のフェンスに立つ老人に何かを要求していた。

人影を見ると瞬く間に鯉が集まってくる

 遊歩道から餌を投げる人がいるのだろう。人影を見ると逃げていくという魚の習性は失われ、人影を餌にありつけるモノと写っているようだ。もはや、野生を失っている。池袋橋は川の上で曲がっている変則橋だが、先の『再発見』の解説では蛇行した川によって袋状に囲まれた地を「袋」というそうで、この辺り、元は湿地帯か沼だったのかなと勝手に想像を膨らます。

 時期が時期なら満開の桜の下を花を愛でながら進むであろう遊歩道を、更に下流を目指して歩く。時折冷たい風が吹き抜けて行く。茶褐色の枝を伸ばしているに過ぎないように見える桜の枝だが、おそらく春の準備にかかっているはずだ。桜の並木が切れたところが乙女橋。さらにその下は堂ノ下橋。
 それにしても、ジョギングしている人の多さには驚く。若者が多いが老人も走っている。川のある土手道は走りの好きな人には快適なのだろう。里程標の石柱No 40を確認。
 

「みなもと4、5キロ/すみだがわ20キロ」ここまで来ると護岸は切り立ったセメントの造作だけとなり、川底につながる最下部の石積みさえなくなって、川の味わいはいかにも人工的な匂いに満ちた3面セメント護岸となる。両脇に家々が立ち並び、所々に現れる小さな緑地公園がなければ、住宅街を流れる広い排水運河に見えてしまう。これから先、川のロマンに出会うことはないのだろうか。

 佃橋の中程に立って上流、下流を眺めて見た。振り返ると、神田川はその時々に違った顔を見せてくれたと思う。景色も一様ではなかった。しかし、橋はと言えばどこも代わり映えがしなかった。鉄筋コンクリートに鉄の欄干が定番だ。ところが、塚山橋は趣が違った。石の橋だ。欄干の石造は重厚で、石柱もある。橋には細かなレンガが敷き詰められ、塚山公園を背にして眺めると、橋そのものに趣があった。塚山公園は名前が示す通り、縄文遺跡が出土した地で、こんもりとした丘(塚)の向こうには竪穴式住居が復元されている。

塚戸橋、珍しく石組と石畳

 塚山公園は鎌倉街道に面している。関東には鎌倉街道と名乗る道筋は多い。鎌倉幕府に馳せ参じる武士がこの街道を疾駆したのだろうか。街道と神田川とが交わるところの橋は鎌倉橋。その脇に杉並区教育委員会の建てた看板があって「鎌倉街道は、東国御家人と鎌倉を結ぶ道で、鎌倉~室町時代に繁栄しましたが、江戸時代以降、次第に衰え、後半期には『野径の如し』と言われるように、一部を残すだけとなりました」と標記されていた。鎌倉幕府は1192年に始っている。室町時代は1573年に滅んだとされる。この街道が栄えたのは今から450年~800年前だったのだ。神田川はその間も絶えることなくこの地を流れていた。

 ここに杉並区の看板がもう一つ。

 少し上流にあった乙女橋とそこを流れる古い神田川の写真がプリントされていた。昭和初期の写真だそうで、橋の先には松並木が写っていて、土手と川との高さはほとんどない。子供たちが土手から川に入って魚を獲ったり、水遊びをしたであろう。つい最近、昭和のことだ。セメントの橋で石柱もあるが、欄干は膝の高さしかない。川と土手と橋は互いに溶け合って、調和しているように見える。

右手の一番下の写真
神田川と土手とはほとんど高さがなかった
昭和初期というから今から100年前


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