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神田川逍遥・老人の秘密8

八 吉祥寺の跡地の今(2020年12月4日)

 吉祥寺の跡地、神田川の流れを見下ろすことのできる地には現在、都立工芸高校のビルが建っている。新型コロナウイルスの盛り、水道橋の工芸高校に向かった。門を入り、前庭であちらこちらを散策していると、セキュリティーの男性が近づいてきた。


神田川の左手に見えるクリーム色のビルは
都立工芸高校
その下に、大きく口を開けているのは取水口
江戸時代には松平讃岐守の屋敷地にあった
雪見灯籠
今は工芸高校の中庭にひっそりと立っている
雪見灯籠の所以を説明するプレート

「何かご用ですか?」
「失礼します。私は水道橋界隈の歴史を調べている者ですが、こちらの学校が有るこの場所は江戸の昔、吉祥寺というお寺のあった所と聞いています。学校の方から古い歴史のことを聞かせていただければ、と思って参りました」
「分からないね、そういうことは。その植え込みの陰に燈篭があって、石碑もあるよ。そこに古い歴史が書いてある。それを見ていったらどう?」
「ありがとうございます。では、それを見させていただきます」
 植え込みに隠れて石灯籠が一基立っていた。脇には嵌め込みの石碑もあって、来歴が書かれている。
『本校は昭和初期に築地よりこの地に移った。
敷地は高松・松平家の上屋敷で、屋敷の広さは5000坪もあり、
池を囲んで日本庭園が遺されていた。
その池のほとりに立てられていた雪見灯籠は、大名屋敷庭園の唯一の名残である。』と。

 安政3年(1856年、尾張屋清七版)の地図をもとに計算された江戸情報地図(小玉幸多 監修 武揚堂)では讃岐高松藩・松平家の敷地は2820坪、隣接する青山大膳亮の上屋敷敷地が7839坪となっているので、工芸高校の石碑に刻まれている5000坪は隣地を含んでいると考えられる。
 庶務課でどなたかに古い話を聞けないものか学校の正面玄関入り口まで行き、あたりをキョロキョロ見回してしていると若い先生が一人エントランスから出てきた。
「突然ですが、少しお話しできますか?」
「何でしょう?」
若先生は足を止めると訝しげな顔もせず、柔らかく聞き返してくる。
「この学校の敷地はその昔、吉祥寺というお寺があった所ですが、ここに工芸高校が建てられた経緯を聞かせていただければと思って、訪ねてきました」
「工芸高校は100年以上の歴史をもつ高校ですが、・・・吉祥寺のことは聞いたことがないですね。工芸高校100年誌が出版されています。それには築地からこの地に移転した歴史が書かれています」
「どなたかに古いお話を聞かせてもらえないでしょうか?」
「う~ん。この学校の前身は東京府立工芸学校で、開校は1907年です。ここには1927年に越してきたんです。越してきたとき、この土地は東京府の用地だったと聞いたことがありますね」
江戸時代、明暦の大火前にこの地に吉祥寺があった頃に遡ったお話を、工芸高校の関係者から聞くのは難しい気がしてきた。
「そうですか。すみません、足止めして失礼しました」
「いえいえ・・・」
感じの良い若先生だった。こちらは老人。年を重ねるとだんだん図々しくなり、恥ずかしさが薄らいでしまうようだ。

 工芸高校100年誌をまず読んでみようと決心した。想像するに、幕末になって徳川家も地方の大名も衰え、参勤交代は取りやめとなっていて、江戸藩邸はどこも手入れが行き届かなくなっていたであろう。ものの本によると、大名屋敷は荒れ放題だったそうだから、高松・松平家の下屋敷も明治の新政府が接収し、東京府の土地として払い下げられた可能性もある。藩主の私有地として残されたとすれば、下屋敷地は明治以降切り売りされて松平家の生活費に化けていったことも考えられる。

 江戸の中心部は4割の土地が大名屋敷、小名屋敷だったとのこと、それも一等地にあったわけだから、明治政府が接収して官庁街を作るには格好の条件があっただろう。明治3年(1870年)の調査では江戸市街総面積の70%が武家地、16%が寺社地だったと出ている。とすれば残りの14%が町民地に割り当てられていたわけで、一般庶民の大方が狭い長屋暮らしだったことになる。大名屋敷のほとんどは維新の功臣に無償で下げ渡されたり、有償で売り渡されたりした。勃興してきた新しい商業資本や薩長などの倒幕関係者は略奪的に私財を形成することができた可能性もある。江戸から明治へ時代が移り、土地は領主の所有から私的財産所有へと移行していった。明治維新は国家権力者の交代と同時に、封建制度の崩壊、新しい経済制度への転換となって社会の構造が変わったのだった。
 ついでながら、全国の農地、畑、山林は封建地主のものとして古い所有形態がそのまま残され、寺社の所有地も払い下げの対象外であった。江戸時代にも農地の売買はあったそうだが、土地の所有者と小作人の関係は戦後の農地開放(自作農創設特別措置法、1946年)まで続いている。

 『工芸高校100年誌』を読んだのはそれから1ヶ月後のことだった。築地から移転した1929年当時の経緯が短く書かれていた。旧松平邸跡に残っていた池を新校舎建設造成の折、校舎の南側に移設復元したとなっていた。この時、金毘羅宮も併設されたそうだ。現在は校舎が再度建て替えられ、近代的なビルになっている。吉祥寺の面影はもちろん、松平邸の跡地であったことを示すものは「雪見燈籠」とそれを解説する嵌め込みの石碑のみとなっている。

 

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