神田川逍遥・老人の秘密 久我山神社の謎
十一の(1) 久我山稲荷神社の秘密
緑橋の次、宮下橋で一旦神田川から離れた。
宮下橋の掛かる通りは6メートル道路で決して広くはないが交通量は多いようだ。三叉路を通り過ぎると少し上り坂になる。坂を上がりきった右手に大きな鳥居があった。鳥居はセメント作りで、造作も新しい。鳥居の後ろに彫り込まれた建立の年月日は昭和63年(1988年)10月吉日となっていた。氏子総代 秦 庄平と刻まれていたのも偶然とはいえ面白い。というのは、稲荷神は朝鮮半島から渡来して京都一帯に勢力をひろげていった秦一族の祭祀だと言われているからだ。鳥居の脇には1メートルもある石柱がセメントの中に打ち込まれていて、『稲荷神社』と深々と刻まれていた。
境内に入ると左手直ぐに社務所があり、その裏が神社になっていた。良く見るとそこは久我山稲荷神社の裏手から境内に入る入り口だった。社殿の正面に回ると、本坪鈴(ホンツボスズ)の真下で両手を合わせて何かを念じている男性を見かけた。後ろ姿だが、背中からゆらゆらと気が立っている。他人を受け付けない凄みと真剣さを感じさせていた。微動だにしていない。相当に深刻な願い事をしているのだろうか。商売繁盛、病気平癒、疫病退散・・・。散々拝んでいたこの男性は本坪鈴の下から狛犬のいるところまで下がると、そこでもう一度社殿を拝ぎ見て両手を合わせ、もう一度祈願に集中した。近くにいる川旅老人を一顧だにせず、狛犬には目もくれない。直立不動の姿勢をとっている。瞬き一つしていないように見えた。よほど大事な願い事をしているのだろう。年格好は3つ、5つ下に見えた。この神社の御神体は保食命(ウケモチノミコト宇迦之御魂神ウカノミタマ)という食べ物を司る神らしい。食い物系の願い事をしているのだろうか。すざまじい迫力がひしひしと伝わってくる。
Wikipedia の解説を見ると、稲荷神は「稲成る神」が「稲り」に転じ更に稲を運ぶ意味が加わって稲荷となったと解説されている。江戸時代になると農産だけでなく、商売繁盛、産業振興、家内安全のご利益が加わり、更には芸能上達が加わって、芝居小屋の楽屋には必ず稲荷神が祀られるようになったそうだからこの神様の守備範囲は当初の食べ物関係から比べるとかなり広がっている。今は交通安全も入っているようだ。本殿の脇の板塀には
『厄除け、家内安全、商売繁盛、初宮詣、七五三等」と標記されていて、更に
『地鎮祭、清祓い(入居前、建物の解体前、樹木の伐採前) 等出張祭典・・・も構いませんのでお気軽にご連絡ください。連絡先 下高井戸八幡神社 社務所 03・・・・』とかなり手広い守備範囲が書かれていた。
連絡先が下高井戸八幡神社になっているところを見ると、2社は提携関係なのか、運営が同じなのか?
ところで、稲荷神社には狐がつきものだが、狐と神とがどのような経過を辿って関係を深めたのか、稲荷神や狐にはどんなご利益を生み出す力があるのか、また川旅老人のように不信心の者にはどんな祟りを与えるのか。手繰ると面白そうだが、やめておく。
荼枳尼天(だきに)と狐との関係にまで遡らなければならないし、荼枳尼天は中世に暗躍した女神でインドの出身だと聞いている。長野市立博物館の出版物を見るとダキニ信仰は震狐王シンコオウ菩薩、天河テンカワ弁財天、刀八トウハチ毘沙門天など複数の神や仏が合体して力を増大させた神々を生み出していると書かれている。京都・今熊野観音寺の刀八毘沙門天に至っては獅子に跨った毘沙門天は手が8本で4面12譬。宇賀弁財天の持ち物の鍵と宝珠を持ち、多聞天の持ち物三叉戟と宝塔を持っている。さらに左右の手には8振りの抜き身の剣をかざしている。背後の頭光は8頭の白狐に取り巻かれている。その迫力たるや、人々の肝を潰さないではおかなかったであろう。
狐がなぜ重要な場面に登場してくるのか。これが次の疑問であるが、暇に任せてそちらに関心を向けると、瞬く間に日本の民間信仰の奥深かさに惑わされ、出口のない森に迷い込んで抜け出せなくなってしまう。神(ダキニ天)と狐との結びつきは仏典に「野干」(ヤカン)と言う動物として説明があるそうだが、野干はインドのジャッカルのことで、墓場を徘徊して死肉をあさる不吉な獣されていたそうだ。ダキニも墓場を住処とすると夜叉で、日本の狐も古墳や墓場に住み着いて腐肉を食べる動物とされていたからジャッカルに代わって狐がダキニ天と結びついたのではなかろうかと想像されている。狐はダキニ天の使者としてではなく、狐がダキニ天に変化したのだと言う説明もある。なかなかに奥が深い。
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