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聖書暗号解読のカギ14 イエスの謎⑩ 衝撃!イエス三大試練はモーセから始まっていた!



神とサタンと一騎打ち
衝撃重要!イエス三大試練 の真実!
謎の三大試練 モーセの時から始まっていた!




洗礼ヨハネとイエスの決別後



洗礼ヨハネがイエスを不信した行為により権利をサタンに奪われたため



その神の摂理修復に必要なサタン権利奪取、償いと言うかたちで



荒野で洗礼ヨハネが辿った路程を



改たにイエス自身



が荒野四十日の断食と言うかたちで行い、終えられたとき、サタンがその前に現れ

(マタイ四・3)
「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」と試練してきた。



ここにはいかなる事情があるのだろうか。



まず



モーセが荒野で「四十日サタン(善悪)分立基盤」の上におかれていた




石板を壊し、磐石を二度打ったという行動、および、



洗礼ヨハネの不信の結果、




その石をサタンが所有するようになったので、これを再び取り戻すため、



イエスは荒野に出ていかれ、



四十日間断食してサタンを(善悪)分立しなければならなかった。



サタンは、イエスがこのように



石を取り戻すために、荒野に出てこられた



ということをよく知っていたのである。



したがって、その昔、(ユダヤ)民族的なカナン【神祝福の地】復帰【回復】のための荒野路程において、



イスラエルの祖先たちが飢餓に打ち勝つことができず、




不信に陥って、石をサタンがもつようになったのと同じく、今、



世界的(民族→世界展開)カナン【神祝福の地】復帰【回復】のための荒野路程におかれているイエスも、彼らと同様、



飢餓の中にいるのであるから、次第に不信に陥って、その石を取り戻そうとする代わりに、




それをパンに変えて飢えをしのぐようになれば、



その石はサタンが永遠に所有しつづけることができるという意味だったのである。




この試練に対するイエスの答えは、


(マタイ四・4)
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」




というみ言であった。



元来、人間は、二種類の栄養素によって生きるように創造された。




すなわち、自然界より摂取する栄養素によって肉身を生かし、



神の口から出るみ言によって霊人体【霊体】を生かすようになっているのである。



ところが堕落人間は、神のみ言を直接受けられなくなってしまったために、


ヨハネ福音書一章14節に
1/14 ‌そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。




記録されているように、




神のみ言が肉身となって地上に来られたイエスのみ言によって、その霊人体【霊体】が生きていくようになっているのである。




ゆえに、
ヨハネ福音書六章48節

‌わたしは命のパンである。



と言われ、それに続いて、



(ヨハネ六・53)
「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」



とも言われたのであった。




それゆえに、人間がパンを食べてその肉身が生きているとしても、それだけで完全に生きているとはいえない。



その上に、



神の口から出るみ言が肉身と化して、あらゆる人間の命の糧となるために来られたキリストによって生きない限りは、完全な人間となることはできないのである。




ところで、
モーセが石板の根である



磐石を二度打ったことによって、その石は、サタンの所有となったのである。




このようにサタンのものとなったその石は、まさしく、モーセが失ったその磐石(岩)であり、



また、その石板でもあったために、その石は結局、サタンの試練を受けているイエス自身を象徴するものであった。



これは、
黙示録二章17節に、

2/17 ‌耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある』。




石をキリストとして象徴し、また


コリントⅠ一〇章4節

10/4 ‌みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。



に「岩はキリストにほかならない」と記録されているのを見ても、



明らかに理解することができるのである。



それゆえに、サタンの最初の試練に応じたイエスの答えは、要するに、私が今いくらひどい飢えの中におかれているとしても、



肉身を生かすパンが問題ではなく、イエス自身がサタンから試練を受けている立場を勝利して、



すべての人類の霊人体【霊体】を生かすことができる、神のみ言の糧とならなければならないという意味であった。したがって、



この試練は、イエスが洗礼ヨハネの立場でもって試練を受けて勝利することにより、個性を完成したメシヤの立場を取り戻す試練であった。



このような神の根本原理的立場からみ旨に対しておられたイエスの言行に、サタンは敗北したのであった。



そして、イエスがこの最初の試練に勝利して、個性を復帰【回復】することができる条件を立てられることによって、


創世記1/28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

神の第一祝福(生めよ=人間完成)
の復帰【回復】の基盤をつくられたのである。



つぎにサタンは、イエスを




宮の頂上に立たせて、



「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい」(マタイ四・6)と言った。



ところで
ヨハネ福音書二章19節から21節

2/19 ‌イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。

2/20 ‌そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。

2/21 ‌イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。




を見ると、イエスは、御自身を神殿と言われたのであり、また、

コリントⅠ三章16節には、
3/16 ‌あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。




信徒たちを神の宮と、そしてまた、

コリントⅠ一二章27節では、
12/27 ‌あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。



信徒たちをキリストの肢体であると言っているのである。




それらを見ると、イエスは本神殿であり、信徒たちはその分神殿であるという事実を、我々は知ることができる。



このように、イエスは神殿の主人公として来られたのであるから、サタンもその位置を認めなければならなかったので、



イエスを宮の頂上に立たせたのであった。



そして、そこから飛びおりるようにと言ったのは、主人公の位置から下りて堕落人間の立場に戻るならば、



自分がイエスの代わりに神殿主管者の位置を占領するという意味だったのである。



これに対してイエスは、


(マタイ四・7)
「主なるあなたの神を試みてはならない」と答えられた。




元来、天使は、創造本然の人間の主管を受けるように創造されたために、堕落した天使は、



当然イエスの主管を受けなければならないのである。



それにもかかわらず、天使が、イエスの代わりに神殿主管者の立場に立とうとすることは、非原理的な行動であるということはいうまでもない。



それゆえに、このような非原理的な行動をもって、原理的な【神の計画】をなさる神の体であられるイエスを試練することによって、




神を試練する立場に立つなどということはあり得べからざることなのである。そればかりでなく、



イエスは、既に、第一次の試練に勝利し、個性を復帰【回復】した実体神殿として、神殿の主人公の立場を確立されたのであったから、



サタンの試練を受けるべき何らの条件もないので、今はイエス自身を試練しないで退けという意味であった。



このようにして、第二の試練に勝利することによって、本神殿であり、新郎であり、また人類の真の親として来られたイエスは、



すべての信徒たちを、分神殿と新婦、そして子女の立場に、復帰【回復】することができる条件を立てて、



神の第二祝福【ふえよ・繁殖】の復帰【回復】の基盤を造成されたのであった。



つぎにサタンは、イエスを非常に高い山に連れていき、世のすべての国々とその栄華とを見せながら


「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」(マタイ四・9)




と試練した。元を探れば、アダムは堕落することによって、万物世界に対する主人公としての資格を失い、



サタンの主管を受けるようになったからこそ、サタンがアダムの代わりに、万物世界の主管者として立つようになったのである(ロマ八・20)。




ところが、完成したアダムの位置で来られたイエスは、

コリントⅠ一五章27節に、

15/27 ‌「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。



万物をキリストの足もとに従わせたと記録されているみ言のように、被造世界の主管者であったのである。




したがって、サタンもこのような原理原則を知っていたために、イエスを山の上に連れていき、




万物の主人公の立場に立たせてから、初めにアダムがサタンに屈伏したように、第二のアダムであるイエスも、サタンに屈伏せよという試練であった。



これに対してイエスは、

「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」(マタイ四・10)と答えられた。




天使は、もとより仕える霊

(ヘブル一・14)1/14 ‌御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。



であって、自己を創造された神を崇拝し、神に仕えるようになっていたのである。



したがって、堕落した天使であるサタンも、彼を拝し彼に仕えるのが原理であるために、サタンは当然、創造主、神の体として現れたイエスにも屈伏して、



彼を拝し彼に仕えるのが原理であるとイエスは答えられたのであった。



しかもイエスは、既に二度の試練に勝利し、神の第一、第二(増えよ)の祝福を復帰【回復】し得る基盤を造成しておられたので、




その基盤の上に神の第三祝福(地の全ての物を従えよ=万物主管)を復帰【回復】して、万物世界を主管するのが当然であったから、




既に勝利の基盤の上に立っている万物世界に対しては、それ以上試練を受けるべき余地がないという意味をもって原理原則的に答えられたのである。




このように、イエスは第三の試練にも勝利され、被造世界に対する主管性を復帰【回復】し得る条件を立てることによって、





神の第三祝福(地の全ての物を従えよ=万物主管)に対する復帰【回復】の基盤を造成されたのであった。

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