変化で現れるもの
たとえば、豊かな時代に育ったならば、いまの世の中の綻びを見たり、今までできたことが、できないというのさフラストレーションである。
何も無いとか、そんなに豊かではない中で生まれれば、その状況が当たり前になるが、世代間でそこがずれるような気がする。
要は、若い子から見たら、なんてワガママだ、という話になる。
ただし、余裕がなければ家族どころか、若い子、次世代さえも、発生しなくなる。
どちらにせよ、余裕が無い、得られるものが得られない、というのは人間を次第に不安や諦め、一種のフラストレーションじみた諦観に覆われるのだ。
給食の危機について話を聞いた。
委託業者が潰れて、急にメシを出せなくなるという。
少し前から、内容の薄い献立や寂しいメニューが問題になっている。
世界各地の戦争や物価高もあるし、基準の栄養さえ揃えるのが、やっとだという。
生きているだけで良い、という言葉が問題なのは、自分の後ろが崩れかけているのを知らないから危ないのである。
奇特な事件も増えた。
少年事件は増えていない、体感不安だ、といつまで言えそうか?
もちろん、記者がネタとして出しているのかもしれないが、奇特なことが本当に増えたのかいままで見えなかったか?のどちらかである。
ネットもあるし、要領のよい子も増えた。
むしろ、大人がネットの対処に追いついていないように見える。
四半世紀前は酒鬼薔薇で大騒ぎだったが、それに準じた事件はゴロゴロ出てくる。
一説では、多少の犯罪はやはり、増えているという。
流行りか何か知らないが特殊詐欺や、粗い宝石泥棒もある。
むかしは、明らかに悪そうな顔をしてたら、7-8割は当たりが多かったが、いまは身なり普通のが平然とやるから分からない。
彼らを知るにも、いまはセキュリティがうるさい。
学校にしても、子供のためにというが、内部で知らない分、どういう変化が歴史的に感じられるか?が、分からない。
それに、大人も忙しく本当に見れているのか?と思う。