文科は不要か?そうでもない


文学…もっといえば、小説や哲学は不要か?というと、そうではない。

考えることがメジャーな時代なら必要かもしれないか、必要なくなれば、個人でやってるしかない。

根暗、根明などが言われていた時代には、彼らのポジションは用意されていただろう。

しかし、いまはSNSはあるし情報やAIもある。
流れは、文章より、伝えるための文字、使えるための文字になっている。

従って、文学や哲学は、作品の傾向がある、ともいえる。

ゴッホのひまわりを見て感嘆するように、ある考えに触れて感激するような、学術的…学問の古典化というのはある。

あるメンタル医などは、ゲーテの詩を観て感激したり、共感できればいいじゃないか?という。

文章じたいに、メッセージ性があるならば、なにも情報だけが癒しでなく、脳…本能的な部分に伝わり慰められるのだから、それでよい。

というのも、スマホ中毒にセラピー物質を求めるから、そうなる部分がある。

むかしから変わらない人間の部分に、共感≒セラピー物質があるなら、遅いし、重い。

速くない分、ゆっくり効き間違いがない。
それに、途中でやめることができる。

スマホだと、正解が光のようにやってきて、それだけでは物足りないと感じ、つい次々みてしまう。

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