定説は変わる、変わらないとおかしくなる


何にしても、定説というのは変化しないというのは疑った方がよい。

数学の公理や普遍的な法則も、とりあえずのルールに則りやっているのだから、鶴亀算やインド式計算が一方であるのだし、世界は色んな解釈ができる。

最近は世の中の変化が速い。

わざと速くしているのかどうか分からないが、それに揉まれインバウンドになったり、嫌な予感しかない未来に対して、多少の悪あがきは、まだしていた方がよい。

果たして、いまの苦境が過去のものか?あるいは、新しい適応障害のようなものか?は、多少考える余地がある。

というか、適応障害というのは、理由はどうあれ、こだわりである。

DVがあったかもしれないし、自分から悪の道に入ったのかもしれない。

やっている姿を、これからも踏襲しようとして、不適応を起こすのだから、今までの「こだわり」は、消費期限が切れかけている。

それに対して「貴方が悪い」とか「変化するのがいい」と攻めたてるのは、無責任でもある。

それには、まず世の中がどうなっており、どうするのが相応しいのか、示さなければならない。

それを、できない側が察するのが当たり前だ、と来るから角が立つ。

まあ、そこまで周りが親切じゃあないから、察して分かれ!というのだろうが、セコさが滲み出ているようで、見苦しい。

ただ、百歩譲って、セコい世の中とすればやはり情報なり知識は自分から取りに行かなければならない。

悪文化は、そうそう変わってくれない。

自らが救われたいものが救われるという、放置系まがいな諺(ことわざ)があるように、むかしの常識のままでは、通用しないこともあるだろう。

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