文科的考えは間隙を埋める


痒いところに手が届くではないが、言葉の少なさというのも、寂しく、不自由な世界でもある。

非言語的なコミュニケーションがあるが、それを言語がして、どういうふうに良いのか?悪いのか?を、コトバにしなくてはいけない。

ある意味、創作である。

言葉が多くなりすぎた世界…スマホ世界のようなものも、どうかと思うが、それらの世界で使うのは消費的言葉である。

いや、最近思うのはSNSなどでは道理が強い。

見ればわかるでしょ?とか、発言力のあるものが場を支配し、誰にもものを言わせない雰囲気が強い。

もちろん、おかしな話をするのはよくないが、建設的に言葉を編んでいく作業では、最悪ではないか。

道理や理を散々述べ、例外や多層空間としての居場所…言葉が貧弱になっている気がする。

そう考える時、居場所的な使われ方から、発言力あるものが更に自分の言葉を固める場がSNSである、と見えなく無い。

むしろ、そんな理や道理の間隙を作り、緩衝材としての言葉を豊かにする部分から、始めなければ世の中…特にSNSでの空間はより、酸欠になってゆくだろう。

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