ジャ二ーの問題について

いま、散々言われているあの問題を触れてみたい。

いまさら、なぜ大騒ぎしているのか分からないが、本人が死んで事情を言いやすくなったのかもしれいけど、どうも政治的なの謀(はかりごと)もあるように考えてしまう、

あれほどのグループだから、騒がれるのは必至である。

この期に及んで、何かを進めたり、決めてしまおうという企みがある、と妄想してしまう。

しかも、決められたときには、もう手遅れなのだ。

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今回は素直に事件について考えてみる。
事態はうるさく言われているので、ここでは連想を書いてみる。

私はニュースというか、BBCの報道の方がよく練られていて、まとまっていたと思う。

ニュースでは印象に残らない。

それに、日本の報道や特集にしても禊(みそぎ)みたいな〆で終わらせ、被害者ホットラインの紹介や周りに話すよう促すよう、形式的な終わり方しかしない。

だいたい、手前(事務所)のことである。
特異な事件を世の中・一般の言葉にすり替える言い回しが不快に感じた。

神戸の教員のカレーイジメの図にそっくりである。

(事件の禊として)児童にカレーを与えなければいいという、大人の問題を生徒の問題に還元する、見方を変えれば卑怯なやり方なのだ。

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私は手前の事情といったが、実は世の中の問題でもあると、思っている。

周りが知らなかったというが、事件になれば、蜘蛛の子を散らすように、責任逃れをするやり方は何処でも有りうるし、昔と変わらないのだ。

何人も相手をして、知らなかったはずあるまい。

ことの壮大さに誰も手をつけられなかったと言った方が正しいのではないか?

壮大さというか、やってる事の酷さ、残酷さにしても、誰も改善するやり方を思いつかないし、関わりたくない。

問題を指摘したり、発言すれば、言い出しっぺとなり、何かしなくてはならない。

もちろん、失敗すればそれなりの覚悟が必要となる。

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事の発端が、まだ消せる火のうちはいいが、誰も止められないままにして、事件になったり、突飛なことになるのは、エイズやサリンの話の続きを見ているようだ。

これは文化的な病理でもあるし、報道番組ではなく、ドキュメンや小説から深読みしたり、考えなければ見えてこない部分だ。

早計な判断がものごとを右から左に流して終わるように、嫌なことを水に流してしまう文化の持つ負の側面でもある。

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