危機に萌えるというのは


日常では、よく分からないヤツが、非日常では活き活きすることがある、というのがある。

人間のポテンシャルは…発揮できる能力はどこにあるか分からない。

日常を営み、それを継続できる方が性に合うのがいれば、危機のときに、目が覚めたように、動き回るのがいる。

~~~~~~~~~~~~

危機に萌えるというの感覚は私にも良くわかる。

別に、ヒーロー気取りや、平和がいけないとか、暴力を肯定するものではない。

ある話によれば、危機に対して予備しながら結果、逆に危機に持ち込んでしまう、というのがある。

備えというか、防御がアダとなり、危険を招いてしまうのだ。

しかし、よくよく見てみれば、日常や平時であっても、落ち着きないのもいれば、どこかでスリルを求めて世の中を送っているのもいる。

養老さんなどは、脳化した世の中は、身体(=自然)が不要になるという。

身体のうちにあるワクワクやドキドキというのは、脳の範疇ではなく、自然である身体から出ているものかもしれない。

脳化、いわゆる効率化や合理化の部分だ。

~~~~~~~~~~~~~

この非日常の方が強いとか、生きやすいというのは、特異能力かもしれない。

しかし、その分扱いにくく、日常では役に立たないどころか、置いておくだけで、大飯喰らいだったり、ハプニングを起こしたりするものでもある。

平時というのは日常…恒常性だ。

何事もなく、失敗せずに、きちんとできることが、良いとされる、見方を変えれば、工業化の時代の名残である。

いまは、脱工業化はされずに、どうも人工知能のように、さらに効率化が進んだように見える。

~~~~~~~~~~~~~~

逆に言えば、非日常を生きる、ソチラの方が強いというのは、どこかクリエイティブでなければならない。

危機は、決まったマニュアルを見て、どうするか?など、役に立たず、習慣やルーチンが適応できる状況では無い。

ホイジンガやカイヨウは仕事と人間、遊びなどを書いた。

そこで連想するのは、素人臭さである。

アマチュアや素人だからこそ、柔軟であったり、創造しながら、やらなければいけないことがある。

玄人は、いつも完璧なものを提示しなければならない。
製品だって、ちゃんとした物をださないといけない。

遊びがあるから、融通も失敗も効くところがあるし、なにより帰って来られるし、修復ややり直しが効く。

プロの神経症的にカリカリして、成功したのを作り出すのはルーチンや効率化、いつもの日常にも似ている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?