流される人間や文化


時代の趨勢により、人間は流されると書いた。


しかし、流されておけば、とりあえずの利益になるかもしれない。


大多数に従っておけば、モノにしても常識にしても、いまのコミュニケーションにしても、それが当たり前となる。


中にはそれでいい、上面だけ合わせればいいじゃないか?という声もある。


それは、その人の生き様だろう。



ただ、その場合にはそれ以外の生き方を、誰でも、自分の子でもいい、上手く示せるか?というと難しいだろう。


世の中には、ひょいひょいと変わるのが好きじゃないというのもいるし、身近な誰かが、それを選んだり、進んでしまえば、彼にとっての当たり前は、ヒビが入ることになる。


当たり前で、選ばされている常識やモノに染まってしまえば、それ以外の文化があるというのを時に忘れる。



もし、そんなときトラブルが生じたり、天変地異が起きたら、今までのやり方を捨てないといけなくなる、こともある。


まあ、そんなこと込みで考えているなら、何も言わないが。



大多数というのが恐ろしいのは、今までのやり方や常識、価値観を捨てるとこれにある。


従って、新たな混乱じみた事態(や暴力的な雰囲気)が生じても思考停止で受け入れる。


たぶん、リベラルとはまた違うものだ。


いや、自由と称していながら、実は従うばかりの代物で、楽であったり、考え無しに流されているだけかもしれない。


たぶん、流されるというものには、思考というのは必要ないのだろう。






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