それでも歴史に触れようとする事


私のような素人が歴史について、とやかく語るのはいけないが、それでも自分の感じたことは、言葉にしたいと思う。

ヒトラーが実は良い人だったというのをチラホラ聞く。

しかし、古い映像を見る限り、家族と戯れ、じゃれ合う総統の姿があり、一方では強制収容所があったという、事実も同時にある。

アイヒマンではないが、実は現代でも共感している人物がいるのではないか?と思う。

勤務に忠実で、帰宅すれば良いパパである。

家族を大事にするが、外の世界はうっちゃっておけ、みたいな、そんな考え、価値観がある気が最近するのだ。

もちろん、表立っては言えないかもしれないが、家族を基本とする体制、家族単位で動いている現在の現状と、その依存を連想してみると、結びつくことはあると思う。

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世界大戦下では、非国民と監視が進み、誰が協力的でない、などの話はよく聞く。

集団は個人が弱いから、つるむのだ、と専門家はいう。

しかし、そうだろうか?

生き物が適応戦略を持つように、その時の生きやすさに沿うように、単純に選んだだけではないか?

戦時下というのは、人間を狂気にする。

けれど、狂気になっていた方が生きる確率が高いなら、それを選ぶ方が何にせよ適切な選択ともいえる。

河合隼雄は、(この国の)父親は弱かった、強ければ反抗しただろうといった。

それと同時に、何時の時代もノホホンとやるヤツはいる、といっていた。

要は、物事を白黒正邪で選ぶのでなく、ときに残酷な道も「適応」で選んでしまうのだ。

「弱い」のではなく「生きやすい」から、選ぶのだ。

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むかしも今も酷い部分もあれば、良い部分もある。

今には今の酷さがあり、昔には昔の酷さがある。

歴史や古典はメモリーである。

過去に見られる類型的なものごとや、良くなる傾向…悪くなる傾向が書かれている。

歴史主義…が嘘か誠か?で揉めるより、なぜ、そんなことが出始めたのか?で見なければ、中長期的に物事は分からないだろう。

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