患者学や非効率なものなど

名古屋に困窮者向けの病院があるという。

外国人や各診療科を超えて診るといい、低額やときに支払い免除をするという。

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原因結果を患者や環境どちらかのせいするのは容易だ。

むしろ、荒療治をもって決めつけた方が早い場合もあれば、ゆっくりと治すパターンも必要もあるかもしれない。

診断名だけして患者を見なくするのは楽で容易い。

星の王子さまには、アルコール症が、呑んだくれるシーンがあり、恥ずかしいから呑むのだ、という。

いまは、不適応を障害と片す風潮が強い。

患者の目線まで降りるのは現実的には大変だし、システム上、降りるに降りられなくなった。

教員でさえ、生徒に年賀状を出す義務はあるのか?と言う時代でもある。

職業の管理化やシステム化の結果、人間のやる事が事務的で無機質になるのは、当然のことと言えよう。

養老さんなどは、意味が無いのは、自然のない無機質な会議室や教室であるといった。

自然というのは、だいたい無用な動きをするから人間…脳が許せないのだ。

原因結果がハッキリしたものを好むのが、養老さん曰く生活の脳化であるという。

要は効率的で意味のあるものを置きたがるやり方だろう。

だいたい、システムにいれば、システムの言葉を使うようになってくる。

効率化した言葉遣いや態度、効率的な生き方や、あってはならないもの、余計な動きをするものを見ない姿勢など、やってるうちに、システムの側に付いてしまう。

不適応というのは、システムから見れば障害や企画外に当たる。

それでも、患者が治らずこの世に出続けるというのは、システムが無理を言っている、ともいえる。

そして、エリートや優秀なテクノクラートなど、管理が得意とか、スッキリ説明できるものが、システムの顔になってゆき、システムの言葉で患者を診たり、物事を捉えることもある。

最近流行りの知能が良い悪い…云々が、それだ。

また、障害なども単一的な原因にしやすいが、実は前までは文化背景や家族や環境などを鑑みる姿勢はあった。

いや、障害であると解明されたというかもしれないが、それも実はいち現象に過ぎないかもしれない。

藤沢で(聞く限り)障害の子が線路から駅員に石を投げるというのがあったらしい。

部分的にし聞かないから推測だが、恐らく何の因果か知らないが手入れに問題があったのかもしれない。

要は公の場で1人で走らせないみたいな、基本的なことをさせずに、育ててきたのかもしなれない。

自由を自由に語るのは経験値のある大人のいうことである。
それを子供も同じだろうと見るから、おかしくなる。

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