逆境なき天才?


ある精神科医は最近の天才?と言われる連中に、昏い部分がないという。

しかし、考えてみれば、天才に至るには努力や逆境がある、と定説の方を疑う必要もある。

努力は必要なら仕方ないとして、逆境とはスランプに置き換えても、本人が楽しんでいるなら、苦痛ではなかろう。

要は、逆境神話である。

苦労がなければ偉くなれないというのは、分かるが苦労しなくてもスイと行くのは居る。

村上春樹などの作品に、その手の器用かつ、天才らが描かれるが、彼らは「出来る」ように出来ているのである。

彼らを撮る側が、彼らの苦労してるっぽいシーンを撮るから、ようやく市井のレベルまで持ってきて、理解ができるのだ。

将棋の藤井さんが、どうして自分は出来るのだろう?と問うた場面があった。

撮った側が悦に入っている彼を撮るから、妙に映ったが、「出来る」とは、考えてみると、結構不思議なことである。

遺伝子やら運命やら色んな説明が飛び交っているが、どれも夢を無くすような印象の書き方がされて、見る気をなくす。

従って作法としては、何故かできる、という淡白な言葉で結ぶ方が後腐れがない。

もし、蛇足を加えるなら、何かをするというのは外界から影響されない方が上手くいく。

余計な説明や義務をチマチマ付け加えると、本来のやることが不純になり、できなくる。

しかも、もしそれが(人間が)共通にできたり、しなくてはならないモノだとしても、余計な気遣いですら、邪魔になることが少なくない。

手段が足りないのも困るが、じつは気をかせすぎたりするのが、足枷になることがあるのだ。

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