晩年の「なだいなだ」を読む


なだ氏の追悼本を読んだ。

なだ節の効いたアルコール症についての内容と、そこから発展した内容だった。

氏の晩年の文章をまとめたもので、最後まで基礎の作風は変わらないが、表層の考え方は流動していたようだ。

「常識」について哲学者を出しながら語っていた。

しかし、使える考えは哲学をやるだけでは「哲学学」で使えず、生きた哲学をやるには自らの分かりやすい考えを込めて、やらなければならない、とまとめられていた。

難解な文章が、患者に果たして分かりやすいか?現場で使えるのか?を考えた場合…難解なものは、大いなる解説が必要となる。

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あたかも、修行者が悟るように「常識とは程度である」と最後は結ばれ、中庸や行き過ぎない、出すぎないという、ちょうど良い塩梅が良いと、文章は〆られていた。

老人になれば果たして悟るものなのか?

しかし、なだ氏が長く臨床をやっていたころ、盛んにアルコール症は程度の問題…たとえば、どれくらい病的な部分に足を突っ込んでいるのか?という、メモリのような書き方をしていた。

たぶん、集大成としての最後の本だったに違いない。

医者というのは患者の塩梅を診るものかもしれない。

また、不合理からの脱却が、近現代の課題であったという。

カミやキツネに頼らず、理性に代わり常識でもって、人間が自分で判断できるようになるのを目指すのだ、とあった。

神頼みもアレだが、過度に科学に寄りかかる傾向は、現代にも見られるが、そこは常識…新しい時代に合った考え方で、視点を調整する。

視点を調整したら、判断して生きていく。

中~後期頃には自立した聖人君子は出ないだろう、と氏は言っていたが、出ないなりに新しい視点をもてる生き方(=常識)は、不完全ながらも必要なことだ、と見ていたのかもしれない。

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