その日私は『大学生お笑いコンテスト』予選2日目を鑑賞していた。もう10年以上学生芸人ウォッチャーを続けている私だが、3年前に始まったこの大会には実はあまり興味がなかった。賞レースとしての歴も浅いし、何よりも大会が盛り上がっていない印象がある。出場ユニットが無名なコンビばかりであり、それ自体は悪くないが、無名なことに納得を覚えてしまうような出来のネタばかりが連続で披露されるのだからたまったもんじゃない。それでも一応賞レースだし、学生芸人人口は年々ありえないペースで増加しているから需要はなくはないとはいえ、学生芸人側も大会自体をナメている節がある。私が変態的な学生芸人ウォッチャーだから見に来るだけで、推し活のように特定の誰かを目当てにライブにくるような女ファンは全くといっていいほど見かけない。当日券だってあまりまくってるし、現にA,Bブロックを見終わったあと客が一気に帰るのと入れ違いに、1番後ろに2人の若い男が座り、最前に座る私含めて客席には3人だけになってしまった。しかもその2人はゼロ笑いでさっきBブロック出番を終えた漫才コンビなのだから、純粋な客は私1人だけ。観客評価の賞レースとして全く成立していなかった。
    大会MCも兼ねる主催の男がCブロックの香盤を読み上げる。

「それではCブロック前半5組参りましょう!まずは、無所属『蟹』!続いて國學院大学お笑いサークルKOC『三者三葉』!続いて…」

    ブロック割に目を通すと、Cブロック後半に早稲田の『シガラミ』がいた。多分途中の休憩が終わる前ぐらいにまた客が増えるだろうな。暗転中そんなことを思っていたら、いつの間にか明転していた。舞台には、誰もいなかった。
    自分の目を疑った。10数秒たっても、人が出てくる気配すらない。しかし舞台には本当に誰もいないのだ。そのまま目線を下にやった。
    いた。蟹が、いた。小さいサワガニが、とことことブリーカーの板の上を横歩きしていた。スタンドマイクも椅子も机も、フリップも何もない舞台上を、サワガニがただただ反復的に動いていた。
    この大会を疑った。無所属の『蟹』が出てくるとは聞いていたが、無所属の『蟹』が出てきたのだから。誰がどうやってエントリーして、誰が許可を出したのだろう。さっき舞台袖にはけていった主催の男に苛立ちを感じながら、それでも無言のチャレンジャーを見るしか出来なかった。
    サワガニは客席に向かうこともなく、ひたすら動き続ける。機械的なのに、生命を感じる動き。ここにはサワガニに必要な水や食べ物がないと言うのに、子供のころ川の中で見たサワガニよりもよっぽど生き生きしていた。
    大学お笑いを疑った。これは面白いのか。これはお笑いなのか。舞台上で蟹がただ生きる姿を見るこれは、この時間は、正しいのか。お笑いって、なんだ。
    その瞬間、体の奥底から自分でも感じたことない笑い声が、自分から出た。吐瀉物のように込み上げた笑いをひたすら吐き出すしかできなかった。それは、感動が伴った笑いでもあった。芸会決勝?NOROSHI決勝?いやそれよりももっともっと強い衝撃かもしれない。全ての感情が笑い声に変換されたような心地がした。何も分からずにステージを行き来するサワガニは、実は何かわかっているかのようでもあった。スポットライトを浴びながら必死に自分のために生きるサワガニは、誰よりもお笑い芸人だった。
    気がつくと『シガラミ』のネタが終わりかけていたし、周りの客は20人近くにまで増えていた。私は、この客たちが『蟹』を知らないうちは、大学お笑いは終わらないんだろうなと思いながら、会場を後にした。

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