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ラン&ついでの自由学習~千住という町から荒川と隅田川の話~
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走った日:2022.5.29
走った距離:17k
押した駅:馬橋 北松戸 松戸 金町 亀有 北千住
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この日の押し鉄ラン(駅スタンプを押しながら走ります、相変わらず)
北千住駅で落ち合ってロッカーに荷物を置いて、常磐線で馬橋へ。
そこから駅スタンプ押しつつ北千住方面へ戻りながら走って亀有まで。
両津勘吉さんと記念写真をとったら常磐線一駅のって北千住もどり。
なので北千住は歩いただけなんですけど、これは歩くからこそ趣ある街なのでした。
千住という町
千住は宿場町です。
千住宿。 日光街道・奥州街道の、日本橋から数えた最初の宿場で、江戸四宿のひとつ、交通の要所として栄えていました。 (ちなみに、あとの三つは、東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿(つまり新宿)ですね)。
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今の地図でみると、千住エリアは、荒川と隅田川に挟まれて、ぷくっと、ふくれた『ほおずき』みたいな形をしています。 そう、東京を代表する二つの川にちょうどうまい具合に囲まれているのです。 と、思っていた・・・・ちょっと前までは(笑)
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北千住駅はJR、千代田線、日比谷線、つくばエクスプレスが通り、千住大橋駅は京成本線の駅です
国道4号(日光街道)を隅田川で通しているのが千住大橋、荒川で通しているのが千住新橋です
ほおずきがすぼまったようなところに架かってるのが堀切橋
ここまでは前置きのそのまた序。
ことの発端的”ざわざわ感”
さて、この街、北千住の駅から5分ばかりいくと、当時の姿を大切に残している? それとも再現している? それはそれは素敵な通りがあります。 その名も宿場通り商店街。 かつての日光街道です。 当時をしのばせるような佇まいのお店と今風なおしゃれなカフェなんかがうま~い具合に融合していて、私は来る度に好きになる(ってまだ2回しか来たことないけど)んです。
その通り沿いに、千住ほんちょう公園というのがあるんですが、この公園、江戸時代の日光道中・宿場の賑わいの雰囲気を伝えようと作られた公園で、千住宿の史跡や旧跡案内図がこんなふうな感じにあります。
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注目したいのは案内図の右端。川を示す水色の帯、読みにくいけど、
隅田川(荒川)となっています。
もう一枚の写真は、自分の影がおもいっきり映り込んでいてお見苦しいですが、今度は左側の川。
荒川(荒川放水路)という表示です。
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右は隅田川(荒川)、左は荒川(荒川放水路)。
・・・・・????????
えっと。
隅田川カッコ荒川???
つまりこれは、この川は隅田川で、実は荒川でもある。
そして反対側は荒川で、カッコして放水路。
隅田川は荒川(の一部)だったということです。
隅田川と荒川を東京を代表するふたつの違う川と考えていることが見当違いだったのです。 そりゃそーですよね、だって、隅田川の起点は岩淵水門だったりするわけだから。
現在の隅田川こそがそもそもの荒川の下流部分、つまり隅田川が荒川。
で、金八先生の舞台になってたり、虹の広場があったり、タートルマラソンのコースになったり、あの広い雄大な川は、人間がつくった放水路だった。 それが今では放水路とは呼ばれなくなって、れっきとした『荒川』と呼ばれてる。
そりゃそうよね、考えてみれば、あんなにまっすぐな川が自然の川のわけがない。
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荒川河川事務所のウェブサイトから拝借した画像です
もうちょっとだけ上流の東西線橋梁からこんなのをいつも眺めています
これは整理せずにはいられない。
で、あらためて、調べてみました。 荒川と隅田川の話。
荒川(この時点では隅田川も含んでいっています)は、その名のとおり『荒ぶる川』、この荒くれものは、過去2回、大きな『川の付け替え』つまり流路変更があったのです。
すごく壮大な話。
徳川の都市計画
現在の荒川の形の原形は、徳川家康の都市計画から始まったといってよいようです。
それ以前の荒川は、利根川の支流でした。 そしてこの利根川ですが、当時は今のように銚子で太平洋に流れ込んでいたわけではありません。
越谷のあたりで利根川と荒川が合わさり、一緒に東京湾に流れ込んでいたのです。
これ、考えただけで身震いがしますよね。 ひとたび氾濫すると流域はいったいどんなことになっちゃうんでしょう?
この利根川と荒川を引き離す壮大な治水事業は、家康が江戸に入ってすぐに着手した都市計画のひとつです。 江戸の発展(というか存続? )は、氾濫する河川をいかにして治めるかにかかっている、そして関東平野の開発は、その川の水をいかに利用するかにかかっていたわけですよね。
家康が手掛けたいいろんな土木事業のなかでも、根幹となるであろうこの二つの大河の瀬替え(流路変更)は、後に『利根川の東遷 荒川の西遷』と言われるようになりました。
一般社団法人東京建設業協会のウェブサイトでこんな興味深い記事をみつけました。
シリーズ インフラストック効果2
首都東京を守る、成長を支える
東京の礎 利根川・東遷 荒川・西遷
現在の首都・東京は、第二次世界大戦以降の復興や高度成長だけで成り立ったものではありません。後に「利根川の東遷 荒川の西遷」と呼ばれる、江戸幕府を開いた徳川家康による大規模治水事業こそが発展の礎となっています。
江戸に入った家康は、水田地帯を洪水から守り、新田を開き、木材を運ぶ舟運を開発し、五街道のひとつ中山道の交通確保と江戸を洪水から守るため、利根川の流れを東京湾から太平洋沿岸の銚子へ大きく変える一方、荒川の流れも西側へと変える大事業に着手しました。その事業のおかげで、江戸の人口は100万人と当時の世界で最大級の都市に発展しました。まさに東京の礎は、ふたつの大河川の流れを人工的に変える「利根川の東遷と荒川の西遷」にあったとも言えます。
さらっと書いてあるけど、すごいことですよね。 利根川の話はこれまた荒川以上に壮大なのでまた別の機会に譲るとして。
荒川の歴史のなかの、二つの大きな流路変更、一つ目がこの徳川の事業です。
寛永六年(1629年)、荒川は熊谷市久下付近で締め切られ、利根川と切り離されて入間川筋に流れ込むようにされ、そしてさらに隅田川を経て東京湾に流れ込むという流れが出来ました。 これが荒川の西遷です。
国土交通省 荒川河川事務所の資料にあるこの地図が比較的わかりやすいです。
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左が瀬替えの前。 濃い青が荒川です。 古利根川という、『当時の』利根川に越谷付近で合流し、二つの流れが一緒になって東京湾に流れ込んでいます。
右が瀬替えの後。 熊谷市久下で、和田吉野川~入間川の流れに付け替えられているのがわかります。 赤いところを人の手で開削したのです。そして左に合った古利根川はなくなって、地図の右はし(つまり東)に(流れが変わった)新しい利根川の流れと、その支流の江戸川が登場しています。
この大工事により、関東では新田が開墾され、同時に堤もつくられて、流域は洪水から免れるようになる。 そして舟運も発達して物資の流通が進む。 さらにまた、同じく都市計画の根幹ともいえる陸路、この場合は中山道の整備とのシナジーで、参勤交代制度の確立に貢献、こうして、徳川による中央集権体制が着々と進んでいったわけですね。
つまり、この時点で荒川と隅田川は同じ川、この長い荒川の流れのうち江戸のまち周辺のあたり(白髭橋から下流あたりらしい)は漠然と隅田川と呼ばれていたようです。
次の流路変更は明治から昭和にかけての苦節20年の大工事
さて、こうして利根川と切り離され、同時に日本堤、隅田堤などの築堤が進み、後の代まで街も田畑も人々も守られた・・・・というには少し厳しい。
やっぱりそこは荒ぶる川、人々が洪水の苦しみから解放されることはなかったのです。 特に中流部。
江戸時代から農村として発展をし続けた隅田川流域は、明治以降、帝都建設の一環として都市化が進み工業地に、そして人口が増え、住宅地も増え、そんなこんなで水害の被害はより一層深刻になっていきます。 中でもそれはそれは甚大な被害をもたらした明治43年の大水害を機に、『放水路』開削が決まったのです。 『放水路』をつくることが決まったその背景としては、
隅田川流域は市街地としてかなり発展していたのでいまさら川幅を広げるなんてできない
隅田川は著しく蛇行しているので(それが水害を深刻にしてるわけだけど)、これをまっすぐにするなんてのは、放水路をつくるのに匹敵するくらいお金がかかる
舟運による経済効果を考えると、川幅が狭い隅田川の改修だけでは期待薄
などなどで、『だったら、思い切って放水路作ったほうがいいんじゃない? ってか、それしかないんじゃない? 』っていうことに。 もう、堤防の整備なんて言う小手先じゃだめだ、抜本的なことが必要だということですね。
次はルート。
ルート候補は4案くらいあったらしい。 それがこの地図の①~④
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①は、綾瀬川との合流地点付近から分流するというものだけれど、これでは下流過ぎて中流の治水効果があんまりない (今の地図を見る限りたぶん堀切のあたりだと思う)
②は、ずいぶん上流。 熊谷あたりからこれだけの台地を切り開いて神田川につなげるなんて現実味がなさ過ぎ
残るは③か④。 いずれも千住の街を迂回させるルート。北をいくか南をいくかだ。 当時、千住の街が日光街道の宿場町として栄えていて、東京近郊のなかでも南に向かってかなりの街並みが形成されていた。 これは北側に迂回するのがよいだろうということで
上流部は広大な荒川河川敷の北岸(熊谷堤)に寄せて蛇行部をショートカットし(紫の部分)
中流は千住の街を北に迂回するかたちで隅田川から離れ、綾瀬川から中川に流れる流路に併せて中川に連絡する(黄緑色の部分)
下流は、中川を横断したら中川沿岸の市街地を避けてやや東にふくらませて中川河口に導く(オレンジ色の部分)
としたということ。
この記事の冒頭で、私、『千住の街は、荒川と隅田川に挟まれて、ぷくっと、ふくれた『ほおずき』みたいな形』って書いたけど、正確にはそうではなくて、『千住の街を避けて荒川(放水路)がつくられた』、っていうことよね。 つまり、あったりまえのこと。
とにかく、こうして、放水路開削が着手されたのが明治43年。 完成をみるのは昭和5年です。 西暦で言えば1911年から1930年、19年に及ぶ大工事。
水路建設のための用地買収にあたっては1300世帯が移転を余儀なくされ、また移転対象は民家や田畑のみならず鉄道や社寺も含まれていたとか。 それでもこの土地買収が2年ほどでできたなんて、今では考えられないスピード感。それについて『荒川放水路変遷誌』(荒川河川事務所)には、
「当時の用地買収では、移転を余儀なくされる人々の個々の事情などは考慮されませんでした。」との記述
があったそうで、それくらいコトは深刻&急務だったということですね。
かくして、荒川放水路が完成してから90年、荒川流域での洪水の被害は報告されていないそうです。 すごいことだね。
で、隅田川の立場にたっていうと、岩淵水門のところで荒川から分かれているなどと言われたりするけれど、これも変な言い方ということになりますね。 荒川から分かれたんじゃなくって、もともとそこが荒川だったんだから。
さて、放水路が出来た時に、もともとの荒川だった隅田川との間で水位の調節をして、荒川の水がどっと隅田川に流れ込むことがないようにしたのが岩淵水門。 その後老朽化がすすみ、今は新しい岩淵水門がそのお仕事を引き継いでいるけれど、当時の岩淵水門(旧岩淵水門)は、水門としての役割は終えながらも、その姿は姿は今も健在、平成21年には荒川放水路とともに近代化産業遺産に認定されているわけです。
荒川放水路から放水路の3文字が消えた日
1965年3月24日、新河川法公布、4月1日施行。 荒川放水路が、『一級河川荒川』となりました。 これにより、岩淵水門から下流の旧荒川の流れ、俗称で隅田川と言われていた川が、正式に(?)『一級河川隅田川』になりました。
まあ、だから、隅田川が荒川だったのはこの河川法施行前の話で、今ではやっぱり荒川と隅田川はそれぞれ独立した立派な一級河川ということですね。
でもなんか、私、忘れたくないと思った。荒川と隅田川の関係。
最後にもう少し広い地図でおさらい。荒川がどんなに広くてまっすぐで整備されている川か、地図からも明らか。そのご苦労に感謝します。
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まとめ
どうどうめぐりもほどがあったけど
整理がついて私はすっきり。
ま、整理するとこんな感じ。
荒川はその名も荒ぶる川、氾濫してそしてさんざん人々を苦しめた
かつては利根川と合流して東京湾に流れ込んでいたのでなおさら
徳川が利根川と荒川を離した
当時、荒川の下流域は今でいう隅田川(だから隅田川は荒川)
徳川の瀬替え以降も荒川は依然人々を苦しめ続けた
それで明治から昭和にかけての大工事で放水路開削
もともとの流れ(隅田川)と放水路の分岐点に岩淵水門(今では代替わり)
1965年の新河川法で放水路が荒川になり、隅田川は俗称から正式名称になりともに一級河川として別々の川とされるようになった。
こんなの飽きずに読んでくださった方がいたら、かなりの川フェチ。お友達です。 ありがとうございます。
以下を参考にしました
https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000704042.pdf
https://token.or.jp/magazine/g201605.html
https://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo00570.html
それからこの本
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