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ラン&ついでの自由学習~深大寺と神代植物公園のジンダイ~

走った日:2022年10月16日(日)
走った距離:18キロちょっと

寄ったところ:深大寺、多摩川もみじ市、東京競馬場

深大寺とか多摩川とか東京競馬場とか

秋が進む10月半ば。
柴崎駅をスタート、まず深大寺を目指し、境内をほんのちょっと散策(というか、ほぼ、通り抜け? )して、多摩川へ。
多摩川原橋が見えたら川岸へ降りて、ちょうど開催していた『もみじ市』を楽しんでから、今度は川沿いを是政橋まで走って、そしてそこから東京競馬場へ。 初めて馬券も買って(自分の名前をまんま発音したみたいな名前のお馬さんがいたので単勝で買ったところ、ぶっちぎり! のビリ笑 は、良いとして)立派な競馬場や場内施設を楽しんだ後に、京王線で柴崎に戻り、銭湯は『神代湯』、そしてお約束の『飲み』。

こんな盛沢山な一日でした。

で、今日振り返るのは、
コースの最初の方で通った深大寺と神代の『じんだい』について。

子供の頃、このあたり、地元とは言えないがまあまあ近くてご縁があり、そのころから『神代植物公園』『深大寺』と、隣同士の『じんだい〇〇』には気がついていた(けど気にしてなかった)し、わりとそのそばの『ジンチュー』『神代中学校』だということも知っていた。
 
そうなのよ。
『深大』寺の周りは『神代』なにがし・・・と神代で始まるものがいっぱいある。 そういえば、走り終わって入った銭湯も『神代湯』、あと、お隣のつつじヶ丘駅から甲州街道に出たあたりには『JP神代郵便局』があるし、そのそばには『神代保育園』がある。

でも、そういう住所はない。

はい! 
このあたりは、かつて、神代村(後に神代町に)と言われていたのです。

今では存在しなくなってはいるものの、こうしていろんなところで残されているということは、この名前はこの土地の人たちにとって、消滅さたくない大切な名前なんだろうと感じたりして。

まあ、同じ読みで違う字が入り組んでいるのは、多摩川と玉川(玉川上水とか二子玉川とか)多磨(霊園)などと、そう珍しくはないことだし、素通りしても良いことなんだけど。

なんか、やっぱり。
なんか気になる。 
深大寺の『じんだい』と、神代村/町の『じんだい』

どういう関係?

で、調べてみました。

と言っても、調べるという行為はしたものの、今回は結論までは行きつけなかった。
信頼できる and/or 理解できる情報に行きつけない。
てか、そもそもの史料も少ないらしい。
だけど、せっかくなので、『ここまでわかった』ということだけでも記しておこうと思った私。
では、不確かなりに整理してみましょう。

『深大寺』と『神代村/町』

まずは、それぞれ別っこに整理しないとだめそう。 (連動した資料/史料が見つからなかった・・・・)

深大寺の話


まずは深大寺。
言わずと知れた、東京の名刹。
なんといってもお蕎麦で有名、そしてだるま市も。
開創は733年。 これは天平5年、つまり奈良時代。 これは知らなかったけど、東京都では浅草寺(628年)に次ぐ古刹なんですね。 
開創は満功上人。 建立時は法相宗の寺院、後に859年に天台宗に改宗。

で、この『深大寺』という名前がどこから来たか
そもそも深大寺が建てられたのにはどういういきさつがあったのか? 
まず、そこから。
深大寺そのもののウェブサイトに行く前に、深大寺小学校のウェブサイトがわかりやすかったので、まず、それを。 (ちなみに深大寺小学校は、今でこそ、深大寺の付近にあるが、開校当初(明治6)は、深大寺境内の『多聞院』が使われていたのだ。)
以下小学校のHPより抜粋。 (太字などの文字修飾は私。)

深大寺は、本名「浮岳山・王寺」、浮岳山は当時、多摩川から北の方を見ると、葦原の河原の向こうに城山が浮いたように見えたので「浮岳山」の名が付いた。 また、「深沙大王寺」の深・大・寺ととって深大寺、水の神様である。
ここの湧き水は武蔵野台地のへりにあって、
~中略~
農民にとって大切な水を祀る意味で寺を建てたと考えられ、西暦733年(天平5年)満空上人によって創建したと伝えられる。
柏野の長者の娘と朝鮮半島からの帰化人の恋、その息子が僧になって深大寺を建てたという言い伝えもある。

~抜粋ここまで~

これを、他の情報も参考しながら、私の解釈を加えてポイントを整理すると

  1. 開創は733年、満功上人。

  2. このあたりは湧き水が多い。

  3. 湧き水は地域の農民にとって大切な大切な生活の基、命の源。

  4. これを祀るために創建され、名前も水神の『王』からとった

ちなみに、このあたりが湧き水に恵まれているのは、国分寺崖線という地形の特徴の恩恵。 崖線とは、河川や湾などの水による浸食作用でできた崖地の連なりのこと。 国分寺崖線は、古代多摩川が流れを変えていった過程で武蔵野台地を削り取った河岸段丘の連なりで、湧き水などの自然の恵みが豊か。

国分寺崖線についてはこに説明がありました。 ↓

まあ、こんなところだろうけれど、今度は最後の二行に注目してみよう。
『長者の娘と朝鮮半島からの帰化人の恋』
なにやら、恋物語。
深大寺のウェブサイトではこっちのほうが詳しくフィーチャーされていました。 もちろん、深沙大王が出てきます。

深大寺恋物語

深大寺ウェブサイトを中心に、いくつかの資料をかいつまんでいくとこんな感じ。
*****
その昔、この地の郷長である長者夫妻の間に美しい娘が生まれた。 その娘が年頃になったころ、福満童子という若者が現れ、ふたりは恋仲になる。 (深大寺のウェブサイトでは福満という名前しか出ていないが、深大寺小学校ではその若者を朝鮮からの帰化人と言っている。 )長者としては、
『そんなどこの馬の骨とも知れないヨソモノ男に大切な娘をやれるわけがない! 』
池の中の小島に娘を幽閉してしまいます。 (つまりこのあたりに大きな池があったわけね)

愛する彼女に会えない福満。
会えない、会いたい、会えない、会いたい・・・・
福満は、大きな池のほとりで(たぶん)、水神の深沙大王に祈り、願いをかける・・・・

と、池の中から霊亀(後ろで解説をしておきますが、麒麟の亀版? (笑))が出てきて、福満を背中に乗せて小島まで連れて行ってくれる。
この奇跡をまのあたりにした長者は、ふたりが結ばれるのを許したのだ。

そして生まれたのが満功上人。
深沙大王のご恩を忘れず、仏教に帰依するよう父親から諭された満功は、父の教えに従って出家、唐にわたって法相宗を学んだ後、この地に帰り、深沙大王を祀って建てたのが深大寺というわけだ。
*******

これが深大寺恋物語のあらまし。
ここでちょっと、私、もやもや。
『神』を祀るのにお『寺』なの? 
福満を助けたのは水神さまなのになんで仏教に帰依するように生まれた息子に諭したの?

ということで深沙大王についてもう少し。

深沙大王は仏教の守護神でもある
玄奘三蔵(孫悟空をおともにしていたあの三蔵法師ね)が天竺にいく旅の途中、砂漠で一滴の水を得ることができず、息絶えようとしている時、流砂の中より現れて護ったとされている。

そして、福満を載せた霊亀(れいき)は古代中国神話に登場する怪物=神様のひとつで、麒麟、鳳凰、応龍とともに、四霊(四神)のひとつに数えられている。

ええと。。。。。

水を祀る自然崇拝の民間信仰なのか仏教なのかはたまた古代中国の神話なのか。。。
このへんがもやもやするんだが、深大寺ウェブサイトは、それを、次のように、うま~くまとめてくれています。

いま深大寺の境域は清水にめぐまれ、その清冽な水はつきない流れとなって、かつては下流の田を潤してきました。古代、その水を求めて集まった人々の泉に対する感謝の心は、素朴な水神信仰を生み、やがて仏教の伝来とともにこの霊地に注目して寺が建立されたといわれます。これが草創期の姿なのでありましょう。

https://www.jindaiji.or.jp/about/history_03.php

そうよね、そんなに自然崇拝、水神信仰と仏教がくっきりと分かれたりしないのよね、それがこの国の民の心よね、ずっと昔から。


ちなみに、この辺は土の質が悪くてお米をつくれない。 だからお蕎麦の栽培が奨励された(というか、お蕎麦くらいしかつくれない)、ひとびとはいっしょうけんめいおそばをつくったら、きれいなお水にも恵まれて、とってもおいしいお蕎麦になって。。。。。のが深大寺蕎麦の始まりですね。
徳川家光が鷹狩で通りかかった際に食してそれはお気に召したとか、上野寛永寺の高層の賞賛を受けたとか、それ以外にも諸説言い伝えなどあるようだけれど、それは長くなるのでまたの機会に。

深大寺城

さて、ついでに深大寺城。

神代植物公園の水生植物園(本園から深大寺を挟んで南側)に深大寺城跡があります。 これは国指定史跡です(平成10年指定)

東京都と調布市の教育委員会が発掘調査を進めていて、正確な築城者ははっきりしないようですが、
武蔵七党のひとつ、狛江氏の築城という説と、
扇谷上杉氏という説、
また、そもそもあった(たぶんそれが狛江氏か? )『ふるき郭』というのを扇谷上杉氏が改修したという説がありました。 

武蔵七党というのは、平安後期~鎌倉・室町時代にかけて武蔵国を中心に勢力をのばしていた同族的武士団。 狛江氏はそのひとつで、調布市のおとなり狛江市はきっとそこからよね。 これも調べるときりがないので深大寺城に戻ります。

この武蔵国一帯は、扇谷上杉氏(室町時代に割拠した勢力のひとつ。 拠点は川越城)と、相模から勢力を伸ばして関東を狙う小田原北条氏とがにらみ合う場。 
扇谷上杉氏は、北条氏へのけん制のためにこの深大寺城を築城(または改修して利用)したということ。 でも、結局、北条氏が直接川越城を攻めたんで、戦には使われず。 そして扇谷上杉氏は北条氏に惨敗して(1537年)、あげくこの深大寺城は廃城となった模様。

いまここで言いたいのは、戦国の争いのことではなくて、このお城が『深大寺城』と言われたことで、つまり、お寺だけでなくこの一帯が『深大寺』という名前で言われていたということですよね、きっと

そして、このあたりは、このあとも『深大寺村』と言われていたようです。1554年に、北条氏康が深大寺村を検地したという記録がある古文書があり(調布市の史料による)、これが『深大寺村』があったことを教えてくれ、この村の名前は江戸時代まで続いたのです。

『神代』という土地の誕生(深大から神代へ?)

さて、こんどは神代についてです。
明治維新。 廃藩置県。 
中央集権国家を目指す新政府は、徴兵や徴税を効率よく進めたい
ということで、これまで自然発生的に生まれていた村落共同体としての「村」が、強引に合併されたり集約されたりしていきます。
なかでもこの辺りは、神奈川県だったり東京府だったりと、振り回されました。

まとまった資料に会えなかったのですが、いろいろつまみながら、年表で整理。

明治21年 新政府は、市制・町村制を公布

明治22年 3月5日 
神奈川県北多摩郡神代村誕生
深大寺村、佐須村、金子村、柴崎村、下仙川村、入間村、大町村の全域と、北野村の飛び地(残部は三鷹村に編入)が合併、集約された。
但し、この時の村側の申告では、この8村(飛び地含む)に加えて、野崎村、給田村っていうのも入っていた。 それが結局それぞれ、三鷹村や千歳村にいったのは、村長さんどうしの力関係とか駆け引き、とかいろいろあったらしい。
で、この時の読み方は『かみよむら』

同年3月31日(つまり、一か月もたたないうちに)
改称。
神代村は、かみよむら⇒じんだいむら に。 
村側からの申告は『かみよむら』だけど、神奈川県北多摩郡からの「お達し」が『じんだいむら』だったって。

で、そもそもどうして神代村という村の名前ができたのか?
そして、それが、読み方が変わった(変えさせられた)のか? は、
やっぱりはっきりとした資料がありませんでした。
さらに、このように通達があった後もなお、当時の記録では『かみよむら』というのがあったり『じんだいむら』というのがあったり、『もともとじんだいむらだったんだ』という記録もあったり、いろいろみたいです。

私、いろんな検索をしていろんなサイトへいってみた(調布市などの公的な機関のサイトもあれば、私みたいに(といっては失礼だけれど)興味があって、いろいろ調べた方のブログとか)けど、やっぱりこれ! っていうのがない。
そんななか、記憶に残ってるものをまとめると(実は、どの記述がどの資料にあったかを確認するのもできないくらいしっちゃかめっちゃかですみません)

  • このあたりには、古代(縄文・弥生時代)から人々が生活をしていたことを証す遺跡などがいろいろ発掘されていた➡かみよ(神代)の時代から栄えていた場所であるという考え方があった

  • 村が合併されるとき、深大寺村がいちばん戸数が多く、勢力も強かった。 村長さんも強かった。 そこに、佐須町など、周りの村が、『深大寺村』がそのまま村名になることを強烈に嫌って抵抗した。

  • そんなこんなで、妥協案として、ジンダイという音は同じながらも違う漢字をあてることとした

  • で、正式に『じんだい』村となっても『かみよ』村と記述する記録が当時の多摩新聞などであるのは、強制的に改称させられたことへの抵抗とか、いろいろあったみたい。

  • ついでにいうと、この地域は自由民権運動が活発に広げられていたところで、それも関係して『(お上に対して)もの言う民? 』だったのかもしれない。

  • また、なんで『ジンダイ』とおカミがしたのか? ということを考えると、そのころは、明治22年が大日本帝国憲法、明治23年が教育勅語なんていうのが発布されていた時代、そして明治43年には日本書紀・古事記の神話を国史として取り入れて、神武天皇以前を神代「かみよ」と記述したりしてるので、この多摩の村を「かみよ」と読むわけにはいかなかった、とかそういうのもあるみたい。

その後、神代村(じんだいむら)は
明治26年に東京府に移管。 (神奈川に属したり、東京に属したりで翻弄されてしまうのだ・・・・)

そして時が経ち(というか省略)時代は昭和へ


昭和15年 
71万㎡の土地が防空緑地として国に買収され、神代緑地と名付けられた。 それがのちの神代植物公園である。
昭和27年 神代村が神代町へ
(なので、昭和22年に設立されていた北多摩郡神代村立神代中学校は、神代町立神代中学校になった。)
昭和30年 町村合併で神代町消滅
おとなりの調布(神代村が誕生した時に一緒に調布町が出来ています)と一緒になって、調布市が誕生。
これで、正式には、『神代』という地名は姿を消していったのでした。

だけど、冒頭に書いた通り、今も尚、『神代』という名は、神代植物公園だけでなく、このあたりにこんなにあるんです。
1.    神代植物公園(深大寺元町)
2.    都立農業高校神代農場(深大寺南町)
3.    特別養護老人ホーム神代の杜(深大寺北町)
4.    市立神代中学校(佐須町)
5.    市立図書館神代分館(西つつじヶ丘)
6.    市立神代保育園(西つつじヶ丘)
7.    神代湯(菊野台)
8.    JAマインズ神代支店(西つつじヶ丘)
9.    調布市役所神代出張所(西つつじヶ丘)
10. JP神代郵便局(西つつじヶ丘)
11. UR神代団地(西つつじヶ丘)
12. 都立神代高等学校(若葉町)
13. 神代書店(若葉町)
 (あとで地図を作って載せる予定)

つつじヶ丘駅あたりをスタートして、『神代つぶし』しながら走って、深大寺でお蕎麦食べるなんていう、物好き神代つぶしランをやってみたくなったわ。 (笑)

補足)


神代村が出来た時に、一緒に調布町が出来て、昭和になって神代町と調布町が合併して調布市になったわけだけど、この調布という名前の由来もついでに。
これは租庸調の調から来ています。 
租庸調は律令制の租税制度。 租はお米、庸は労役、調は地方の特産物など。 この調を布で納めたから調布。 そういえば、調布市には、布田とか染地とか、布に関連する地名がありますよね。 他の地域に『なにがし調布』なんかが(田園調布とか)あるのもそういう謂れでしょうね。

 
もうね、18Kのランで、スタートから深大寺まではほんのちょびっとよ。
滞在時間的にも短くて、最も楽しんだのは競馬場。
なのに、ちょっと気になって、調べだしたら、ずいぶん時間がかかって、テキストもこんなに膨大になって。 もしも最後まで読んでくださった方がいらしたら、感謝しかありません。
『深』く『大』きく感謝します。

最後に、深大寺境内でとった紅葉と、競馬場から府中競馬正門前駅に直結する橋からとった紅葉を載せておきます。
秋ですね。


深大寺境内の紅葉。かわいらしい七五三が大勢。


府中は秋

参考にしたサイトは以下です。


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