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ラン&ついでの自由学習~名古屋城篇~

走った日 2022.3.13
走った距離  43.4k

名古屋ウィメンズマラソンに参加してきました。 なので今回のランは距離が長いです。 フルマラソンなので、42.195キロ走ればいいんですが、私はタイム遅いので、整列が一番後ろ。 号砲が鳴ってから測り始めているので、スタートラインに着くまでも走らなくちゃいけなくて、だからフィニッシュにたどり着くまで、43.4kとなるわけです。

これが、実際の私の軌跡(左)とマラソンのコース(右)です。 当然同じ形ですけど、ゴールで私のランウォッチは43kを示しています。

スライド1

私の足で、26kくらいあたりから斜め前方に名古屋城が見えます。 

『名古屋城が見えるって言ってもね、ほんと、意識してないと見えないからね。 どのへんにあるってわかってないと気づかないよ。 』

と、先輩たちから聞いていました。

でも、私にははっきり見えました。 緑に輝く天守閣。 きっとお城が好きだからです。 というか、以前出張で名古屋に来た時に、ホテルから名古屋城まで走ってみたことがあって、そして中に入って、美しさとかっこよさに見とれた。 なんとなく思い出したんでしょうね。 その時はそこがこのレースのコースになるなんて知らなかったわけだけど。

名古屋城といえば、『金の鯱鉾』。 『絢爛豪華』。 『威風堂々』。 とにかく外観が素敵だということばかりが印象で、人とあんまり結びつかない。 織田信長の安土城とか、豊臣秀吉の大阪城とかみたいに。恥ずかしながら。

誰のお城? 誰が住んだの? 誰が建てたの?

そういえば。

以前、やはり名古屋ウィメンズマラソン出走予定の(その時は私は出走なんて畏れ多くてとんでもなかったと思う)ラン友達に、仙台出張のお土産にゆるキャラ『むすび丸』(もちろん伊達政宗公フィーチャーです)の絵柄の手ぬぐいをあげたら、喜んでくれて、『これで名古屋走ったら家康殿のお怒りを買っちゃうかなぁ』って言われたことがあった。 はじめて名古屋城と徳川家康が結びついた、恥ずかしながら。 けど、そんなことそのまま忘れて、あいかわらず、かっこいい外観、緑に輝く天守閣と金の鯱鉾。

さて、ここはやっぱり名古屋城とちゃんと向き合いましょう。

で、調べてみました。

そもそもは那古野城(なごやじょう)

今の名古屋城がたっているところには、もともと那古野城というお城があった。 室町時代のこと。 主は今川氏。 戦国の世になって、織田信秀(信長の父)が力を強め、この城を今川氏(当時の城主は今川義元の弟、氏豊)から奪い取った。 信長はそこで生まれたという説もある。 その後大きくなった(?)信長も、一時そこに住んだけど、尾張統一に向けて、より立地のよい清州城にうつった。 信長が、尾張に侵攻してきた今川義元を迎え撃って勝利した、あの有名な『桶狭間の戦い』では、この清州城から出陣している。ちなみに清州城は清須市で、地図で調べると名古屋城から6-7キロくらい。

信長はその後、さらに小牧山城、岐阜城、安土城と拠点を移しながら、天下統一の地固めをしていく。けど、誰もがご存じの通り本能寺にてこの世から去ることになりますね。

で、那古野城の話にもどると、こうして信長が出ていったあと、そのおじさんである信光が城主になり、信光が死んだらその重臣が城主になるなどしながらやがて廃城となっていました。

50年後、その場所に目を付けたひとがいる。徳川家康だ!

誰でも知る通り、家康は関ケ原で勝利。とはいいつつも、大阪には秀頼がいる。豊臣氏の動きはけん制しておかねばならない。いずれ豊臣方と戦うことを睨んで、家康としては、江戸と豊臣がいる大阪の中間である尾張あたりに徳川の砦を固めておきたい。そこで眼を付けたこの場所。名古屋城築城の始まりです。

ちなみに今、名古屋市の中村区と西区にまたがった那古野という素敵なエリアがありますが、これは『なごの』と読むようです。その関係はいろいろ調べたけれど複雑でいまだはっきり腑に落ちてないのでまたいずれ。その土地の方、ご存じでしたらぜひ教えてください。

家康による名古屋城築城大工事と尾張徳川家

ということで、名古屋城というのは、家康が、豊臣の力を抑え込むための地固めとして、かつての豊臣側の大名そうそうたる20名(この中には、加藤清正とか福島正則なんかがいた)に命じて『公儀普請』で築いたお城です。『公儀普請』というのは、『御手伝普請』とか『天下普請』ともいい、豊臣政権とか江戸幕府とか、そういう大きな権力が大名を動員して自分たちの城郭を築城したり(させたり?)修復したり(させたり?)した大規模土木工事のことをいうらしい。もう、権力でやりたい放題っていう感じですけど、このように、徳川が関ケ原以降に徳川側にきた大名を使った公儀普請は、彼らの経済力を削ぐ狙いもあったわけで。名古屋城もそのひとつ、というかその代表というか。こうして、徳川の権力の地固めがどんどん進む中、当時の最先端の技術を駆使した城が完成、天守閣は徳川家の栄光にふさわしい金鯱が。

さて、この名古屋城の最初の城主は家康の九男、徳川義直尾張徳川家の初代当主です。尾張徳川家は徳川御三家のなかでも筆頭。義直以降17代にわたって、尾張徳川家当主が名古屋城の代々の城主に。これが明治まで続きます。
その間なんといっても200年強。いろいろと傷みやほころびも出てきます、いろんな大改築などがされてきました。その中には、宝暦の大改修と呼ばれる、すごい改修工事もありました。建造から100年もたって、天守台石垣が沈み、天守が傾いてしまったので、天守閣をテコの原理で持ちあげて、その下の石垣を組みなおす。すごいことですよね。とにかく、大切に大切に、メンテナンスされてきていたわけですね。

維新から現代まで 

さて、さらに時代がすすみ、ご維新。尾張徳川家は華族の侯爵家として存続しました。で、名古屋城はどうなったかというと、陸軍の所管となり、取り壊しの危機を迎えるも、このような美しい城は存続させるべきとの声も強かった。 そこで、所管が宮内省にうつり、天皇皇后や皇族方がお泊りになる場所(施設?)となり、その名も名古屋城から名古屋離宮に。離宮なんてちょっとピンとこないけど、この美しいお城が取り壊されなくてよかったわ。

そして昭和になってから、この名古屋離宮、名古屋市に下賜されて、晴れて名古屋城という呼称が復活、一般公開されるに至った・・・のだそうです。
そして本丸御殿は(当時の)国宝指定。城郭としては国宝指定第一号となりました。

さらに時が経ち、戦争。名古屋城は空襲で焼失、残されたのは石垣だけに。だけど、再建を求める声熱く、名古屋のみならず県外国外からも多くの募金があつまり、大修復。何度かの修復ステージを経た今、こうして美しく微笑み名古屋の街を見守る、押しも押されぬ名古屋のシンボル、名古屋城と金の鯱鉾。

最後のわたしのつぶやき

まあ、お城というのは戦のためのもの。わたしたちにとっては、『美しい』とか『かっこいい』とか、そういう『鑑賞する建物』なわけだけど、それは今だからこそで、そもそもは戦。戦には勝者と敗者がいて、その結果によって歴史が動くわけだから、城主も変わるわけですね。そういう入れ替わり立ち代わりの主を受け入れ、別れ、ある時は長年付き合い。尾張徳川家に落ち着くまでに、ここに出てきた名前は(那古野城も含めれば)城主としては今川、織田。そして家康が築城にあたり意識していたのは豊臣。織りなすのはまさに戦国の大大大主役たち。こうして目まぐるしい勢力の変遷と流れる時を見つめながら、名古屋城は、こうして昨日、走る私たちを美しく見守ってくれていたわけですね。

名古屋城は、日本の数々の名城のなかでもあまりにも有名で、こんなことこれまで知らなかったのは私だけかもしれません。名古屋の方がこれを読んだらあきれるかもしれません。でも調べてよかったです、私としては。(笑)

名古屋城ラブ。今度はゆっくり、名古屋城を楽しむために訪れます。

あ、それと、名城公園も走ってみたい。徳川美術館も行かないとね。

外側から魯

今回のお勉強で参考にしたのはこのへんの情報でした。



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