3/19 『蒼穹のファフナー THE BEYOND』7,8,9話を観た

面白かった。映画館へ観には行けなかったので、Blu-rayにて観た。面白かった。

あ、あと一本(3話)で終わるのか……⁉という不安が首をもたげる一方、しかし終着点にたどり着くための準備が整った感じもある。マークアレス、存在(Sein)と否定(Nicht)をさらに超える全能(Alles)だなんて、よくもまあそんなことを思いつく。さらにはマークニヒトの再ザルヴァートル化。最初、ちょっとスーパーパワーによる逆転が続いちゃって若干盛り上がりには欠けるかなって思ったんだけど、観終えて一晩経ってから、ニヒトが再ザルヴァートル化する意味を考えて、ニヒトがもう一度ニヒトに、つまり二重否定……⁉と思い至ったら、むちゃくちゃ興奮が押し寄せてきてしまった。生まれ変わった二人目の総士が二重のニヒトを駆るのか!なんだこのロボットバトルアニメの殻を被った概念バトルアニメ。ほんっともう、よくもそんなことを思いつくなあ!

否定といえば、文彦とマリスの会談シーン。マリスの「島の古い人類連中は自分たち新い人類を犠牲にして生き延びようとしている。お前たちが僕たちの犠牲になれ」と言うんだけど、そこには一理はあるかもしれないとも思える。それはもともと子供たちをファフナーに乗せて島を守らせていた竜宮島そのものに突き付けられた否定の刃であり(もっと言うなら、少年がパイロットになるロボットアニメ全般にさえ言えるが)、それはまっとうな批判でもある。島の人々は本来とても矛盾しているのだ。零央と美三香の両親たちがいい例で、自分たちの子供に「もうパイロットを降りてもいいんじゃないか」と言うが、それは次の世代の子をパイロットにしろということでもある。そうして更に零央と美三香の子供を期待するけど、仮に子供ができたとしてしかしその子はまたファフナーパイロットの候補になるかもしれないのだ。むろん、子を失って悲しまない親はもはやあの島にはいなかろうし、その悲しみに慣れることなどあり得ないということは、羽佐間さんちの方で描かれている(これらを別々に分けて描写しているというのが、なんというか、ファフナーだよな……部分で全体を表す……)。そうした矛盾、矛盾とも言えない人類の宿業がイヤになっちゃう気持ちはわかる。まあ、それでフェストゥムの方に行く判断は、どうなんだ、ということだが。へスターの方に行くべきだったんじゃないか。なまじエスペラントだから、そちらの方が会話ができる、話が通じると思ってしまったのか。

どんどん感情を獲得していくセレノア、レガートなども含め、どうも人類よりもフェストゥム側の方が、その行き着く先が気になってしまうな。旅路というなら、ミールの方が遥かに長き旅路を歩んでいるわけだし。最終巻は映画館で観たいところ。

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