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今更ですが。

こんにちは!
オンライン・パタンメイキング・パーソナル・レッスン
「Studio di Felice」主宰の坂元です。
今回タイトルの「今更ですが。」はい、私去年の暮れからnoteに投稿しているのですが、自己紹介をしていませんでした事に今気がつきました。
私のホームページを訪れてくださった方は何となくでも背景をご存知かもですが今日は改めて自己紹介を兼ねて少し私のことをお話しします。

1.デザイナーを目指す!

私は1966年生まれで、今年で55歳になります。
子供の頃から絵を描いたり「画用紙」や「竹ひご」で何かを作る事が好きでした。
そんな私が小学校5年生の頃、一人で留守番をしていた時に偶然テレビでみたファッションショーに目を奪われました。
誰のショーだっのかは覚えていませんが、洋服が出来上がるまでの舞台裏のドキュメントムービーを挟みながらラストの「マリエ」で真っ白な美しいドレスが次々にステージに現れ、子供ながらにその「美しさ」と「デザイン→絵を描く」「縫製→作る」仕事の存在を知り、ファッションデザイナーになる事を決めました。
★その前は「画家」に成りたかったのですが、当時母に
 「画家は生きてるうちは売れへんし食べて行かれへんで」と言われ、食べる事
 が大好きな私はあっさり仕事として「絵を描く」という事を諦めました😅

2.専門学校への道

それからの私はそれまで以上に絵を描く様になり、中学校に上がるとデッサンに夢中!そして、雑誌「non・no」を買う様に成り、片っ端からデザイン画の練習としてページを飛ばさずに模写をする日々!
次第に早く洋服作りの勉強を始めたい熱がヒートアップ!
中学校卒業後は進学ではなく専門学校を希望したのですが、学校の担任からは勿論、親からも猛反対!
当時は男がファッションデザイナーを目指すという事自体周りからはまだ珍しがられていたので、せめて高校を卒業してからだったらOKとの事で仕方なく進路希望は高校としたもののどうしても早く専門学校に入りたくて秘策を思い立つ!
「高校受験失敗すれば恥ずかしくて専門学校へ行かせてくれるはず作戦!!」

受験勉強と称して机に向かって「模写」や「デザイン画」の練習の日々!
そして万全の対応で受験に挑み、結果発表の日!
もちろん私の受験番号は「ある!」えっ?
何で???俺勉強してないやん!訳わからないまま作戦失敗に失望しながら、取り敢えず担任へ結果報告に職員室へ。
肩を落として暗い顔をして担任に一言「すみません、、、合格でした」
担任は「何暗い顔しとんねん!合格やおめでとう!」と私の気持ちとは裏腹に全力で喜んでくれました。

私が少しでも早く洋服の勉強を始めたかったもう一つの理由。
いや、1番の理由だったのは、私は「おばあちゃんっ子」で、記憶がある頃からずっとおばあちゃんがそばにいて、受験の少し前に亡くなるまで同居していた大好きなおばあちゃんに一番最初に洋服を作りたかったから。
母から聞いたおばあちゃんは、明治生まれで、まだ周りの女性は着物で頭を結っていた時代に、ワンピースを着てハイヒールを履き、フランス料理を習っていたそうです。そんなおばあちゃんに、とても大切に私を可愛がってくれたおばあちゃんに恩返しで洋服を作りたかった、、、
その想いは未だに有ります。そして、今はその想いを洋服を通して得た収入を福祉に還元したいになっています。

そんな想いから、高校に通い出すもどうしても早る気持ちが抑えきれずに高校を「中退」という選択になり、初めて両親と大喧嘩をし、通信制の高校へ編入を条件に高校2年の秋に「自主退学」を許してもらい、晴れて専門学校へ行く事が許されました。
高校の担任からも「それだけ決心が硬いのなら残念だけれども、むしろ応援します」と「退学」を認めてくれました。大学進学を勧め、楽しみにしてくださってた担任を裏切る形になった申し訳なさと、快諾してくださった感謝の気持ちが入り混じった複雑な心境の中、晴れて翌年の4月から専門学校と通信制高校のダブルスクールの始まり!それまでの間もやっぱり「模写」と「デッサン」で過ごす日々でした。
この時に初めて母から
「実は、私も結婚前に神戸の大きな洋裁学校に通ってて、そこの校長に卒業後パリで勉強してきて、帰国したらうちの学校で教鞭を取って欲しいと言われたんよ!」で、それを戦時中に持病の手当が遅れて祖父が亡くなり、当時二人暮らしの祖母に話したら元々心臓が弱かった祖母がびっくりして、心臓がまた弱ったようで母は祖母を一人残して行かれへんわって、あっさりと洋裁を辞めてしまったと話してくれました。
その時の母は「カエルの子はカエルやな」と少し嬉しそうだったのを覚えています。

3.晴れて洋服の勉強のスタート

私が入学した専門学校は「ファッションデザイン科」の他に「インテリア科」「グラフィック科」「絵本創作科」と2年制のデザイン専門学校でした。
それぞれの専科の授業以外は全科共通科目で「デザイン理論」「色彩」「デザイン史」等を学びました。
ファッションデザイン科では「パターン」「ソーイング」「モデルカッティング(ドレイピング)」「ファッションデザイン」の科目が有りましたが、偶然全ての先生が「伊東式」出身の先生ばかりでした。
今は「伊東式」を教えるところも少なくなっています。創始者の伊東茂平先生は紳士服のジャケットを解体し独学で洋裁を学び昭和4年に設立され、分度器やコンパス、幾何学を利用した作図方式です。

当時の私はデザイナーがパターンも引くものだと思い込んでいましたが、「パターン」だけはどうも苦手で一人で引くことはもちろんできず、ノートを見ながらやっと引けるレベルでした。
今となっては笑い話ですが、身頃原型の真ん中にあるアームホールから頭が入ると思い込んで、トワルで半身組み立てをしボディに着せつけるときにアームホールをボディのネックに被せようとしたり、袖を引く時の袖山をS字に描く前の「三角」の状態で袖を裁断し、身頃につけようとしたり→袖山をS字で描くと距離が長くなるので身頃につけると余ると思ってた💦
本当に相当やらかしてました😅
ドレイピング前のトワルの地のしチェックではあまりの出来の悪さに、そのトワルを先生に何度も「あかん!出来てない!何やってんの?付き合ってられへんから、私は授業を勝手に始めるから、見たい人は見とき!」と私のトワルをほり捨てられるほどスパルタでした。そして、とどめに

「あんたらプロになりたいんやろ?しっかりしいや!」

帰りに先輩から「あの先生だけは何があっても食いついて行かないあかんで、厳しいけど、やる気を確認して振るいにかけてるからな!ホンマはメッチャ優しくって、生徒のことを考えてくれてるから、絶対に逃げたらあかんで」と、そして2年目になると先生の態度は一変!厳しさは変わりませんが、授業のない日は先生のアトリエに招いて苦手な所をアドバイスしてくれたり、課題の付属に使いなさいと輸入物の高価なパーツをくださったり、、、
本当に出来の悪い私を根気よく指導してくださり、かけがえのい私の1番の恩師石川温子先生との出会いです。
★後に聞いたのですが、石川先生は当時で6000千人ほど生徒を送り出してきた様
 ですが、私は本当に一番出来が悪かったと聞かされました💦自分でも決して出
 来るとは思っていませんでしたがまさか「一番出来が悪かった」とは、、、

4.デザイナーとして就職

私は、その恩師のお陰もあり、無事に卒業しニットデザイナーとして就職をし、小さなメーカーだったこともあり、入社して早々にデザインも採用され、カットソーですが初めてのサンプル依頼が済み、私の品番が上がって参りました。その感想は
「?」
品番とデザインを間違えて上がってきてる!間違えた他のメーカーさんもきっと困ってると思い、工場さんに電話を入れると担当の方の返事は
「品番は間違えていないです、、、ただそのデザインを私が引けなかったので似たデザインに形を変えて引きました」
いやいや!例えるなら「ラーメン」を注文したのに「カレーライス」が届いた位の変わり様でした。
その時に、デザイナーにも「デザイン意図を伝えるためのパターン力」が必要という事を痛感し、それからはほぼ毎日会社帰りに図書館に寄り、片っ端から洋裁に関する本を読み漁る日々でした。

結局、その会社には一年程在籍しましたが、もう一度パターンの勉強をしようと退職し、一年間アルバイトでお金をためて改めて大阪の第4ビルに有った茂平先生の次男の伊東 欣也先生が校長を務められる「伊東アパレルカレッジ専門学校」に入学しました。
そこで、二人目の恩師中村多美世先生に出会いました。
中村先生は伊東茂平先生の内弟子であり、当時ボディ代わりに茂平先生が作られたトワルを一日中立ったまま着用し、たまに茂平先生の手元が狂い、ピンが身体に刺さってもじっと耐え、身体中血だらけになりながらもその製図の完成、精度向上に貢献されました。
茂平先生が亡くなられた後も、伊東式の研究に取り組まれ、私が在校していた三年間の間にもその原型の改良は数回行われ、幸運な事に間近でその改良の一つに携わらさせて頂く機会も頂きました。

自己紹介と言いながら、書き出したら自伝の様になってしまいました。
続きはまた後ほど、、、
なぜ、私が今「オンライン・パタンメイキング・パーソナル・レッスン」を始めたか、このnoteを通して何を伝えたいかのルーツに自分でも触れる様な気がしてきました。

私見の域を出ませんが技術に加えて大切なことをお伝えしたい。
引き続き「共感」頂けましたら是非次回もお読みください。

今日もお読み下さり、ありがとうございました。
皆さんが、環境の変化の中にも心穏やかに過ごせます様に🌱

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