子どもの発する「生きづらさ」
教える仕事をしてるとね
生徒さんから
「ちょいと、もこちゃん。
ちょっとこぼしたい愚痴があるんだけど」とよく言われます。
そして、そのやりとりで感じることがあります。
それは、子どもたちが発する大人側への文句が
あながち間違っていないという事実。
でも、大人に伝わっていないという真実。
「はぁ、なんか生きづらいわ~」
って発する子ら…
私はね
「生きづらさ」っていう言葉を多用することには
違和感があるんですよ。
私には、「生きづらい」ってなんとなく自己責任であると突きつけられているような言葉に感じるんです。
一方で
「生きにくさ」は分かる気がします。
自分で不便だと感じているということです。
自己責任だと自分の問題。
課題は自分自身にあるということになりますよね。
でも、子どもは状況を把握できているのでしょうか
説明が子どもに十分になされているのでしょうか
そもそも、説明が十分にされるだけ意味のある指導(指示)なのでしょうか
大人だって
説明が足りなかったら理解はできないし、その説明だって相手がどこまで基本情報を持っているかで受けとり方に大きく差が出るでしょう
意図が分からないものは、たとえ行ったとしても、相手の思うほどのものにはならないでしょう
生徒さんは言います
「彼らの言っていることは、意味が分からない」
生徒さんは
無意識に この状況を「生きづらい」と表現したけれど
私は、これは「生きにくい」のほうが適切なのでは…と感じたりします。
上記を生徒さん側から見ると
改善できる余地は相手側にもありました
双方に改善するものがあったのです
私は
それはコミュニケーションの「課題」として認識していいのではないかと思います。
意思の疎通が図れない状況は 不便な状況 ですから、
改善していけるとgood
と言えます。
もちろん、時間は有限なので
なかなか十分に話し合う時間は取れないのかもしれません。
でも、「生きづらさ」という一方に責任があるような捉え方でなく
互いに考えを擦り合わせて伝わりにくい状況を改善していけたら
よりよい関係性が生まれるように思うのです。
私にとって、考えの擦り合わせは 思考のアンサンブル
よりよい関係を奏でるための大事な要素なのです。
「社会」と「世間」を分けて捉える
私が重要視している項目があります。
それが 社会 と 世間 です。
社会は、法律や条例によって決められたルールに沿ったもので動き
世間は、そのルールを集団が解釈し、文言のないルールを生むもの
だと、私は解釈しています。
なぜ、「世間」という言葉を意識するかというと
それは「集団=マジョリティー」の存在が大きいからです。
先ほど「相手に説明が十分になされているか」という点を挙げましたが
集団で母数の大きいものの思考パターンが集団の思考パターンになります。
それは5人以上のグループだと確実に生まれますが
理由もなく無意識の、この集団にとって「ありえない」という項目が生まれます。
すると、異なる考えや意見を自然と「おかしい」と判断する雰囲気が生まれるため、十分な説明がなされないまま(若しくは決してその方法でなくてもいいのにもかかわらず)指示の押し付けが生まれがちです。
(これは、アイディアを狭めることになるのでいいことではないはずなのですが、なぜかよく起きているんですよね…)
他者と考えの異なるタイプの子は、自分の意に反して
様々な場面でその不自然なルールを受け入れています。
かつて子どもだった私たちも
同じような思いをしたことがあったでしょう。
そこで学べるコミュニケーション術、処世術もあるけれど
一方で受け入れてもらえない渇望感もあったかと思います。
すべての場面で十分な対応はできずとも
その子が苦しくなりすぎる前に
考えをそのまま受け取ってもらえる居場所があってもいいですよね
私は、自分の職場も含めて
対話の場を参加者の「居場所」としたい
そう思っています。
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