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愛すべき、小さき者たち。

わたしは、小学校低学年以下くらいの子どもたちのことを、敬愛を込めて「小さき者」と呼んでいる。
たくさんいらっしゃる小さき者たちの中でも、特に目が離せないほどの魅力を放っているのは、やはり2人の姪だろう。
彼女たちと出会ったのは、約3年前の夏と、おおよそ去年の初夏である。
出会った当初と比較すると、仲良くしてもらえていると思う。…多分。

そもそも、言葉を使う仕事を生業とし、言葉で表現することに躍起になっているわたしは、小さき者とのコミュニケーションが下手である。
しかも、小さき者を小さき者として捉えず、一人の人間として捉えるものだから、なかなかどうして、うまくいかないことも少なくない。
そのせいなのか、何なのか、上の姪には特によく泣かれた。
なすすべもないので、遠隔から、および動画にて、眺めることに徹していたのだが、昨年あたりから、歩み寄りを見せてきた。
それならばとこちらも歩み寄ってみると、ある程度コミュニケーションを取れるようになっているではないか。
これが実に愉快である。

まず、状況を見て物を言うことをしない。
思ったことが思ったまま、彼女の知っている言葉で表現される。
言葉で表現しきれないところは、笑う、喚く、泣く、という方法を使って表現。
実にインパクトがあり、相手の判断能力を絶妙に低下させてくる。

それから、繰り返し行うストイックさがある。
同じ絵本は少なくとも3回は繰り返し読み、すべり台も何度もすべる。
相手(同伴者)がちょっと飽きていてもお構いなし。
気に入ったものは何度でも楽しみたいという貪欲さがにじみ出ているのだ。
(ちなみに姪は、まだ文字は読めないのに絵本の読み聞かせができる。ページネーションを含めて丸暗記である。)

そして、しっかり人を見ている。
非常に短い時間で、誰に何を頼むのが得策か判断している。
歩けないといえば抱っこしてくれる人、開けてと言えばお菓子を開けてくれる人、泣けばあやしてくれる人…などなど、自分の要望に合わせて人を選んでいるのだ。
ここで彼女のお気に入りメンバーに入れるかどうかが、仲良くしてもらえるかどうかの分かれ道でもある。

ちなみにわたしは、開けてと言えばお菓子を開けてくれる人に多分認定されているのだが、母親(わたしの妹)に見えない場所や、聞こえない声で頼んでくるところに感心してしまう。(姪の努力むなしく、わたしは妹に「あげていいのー?」と聞くのだが。)
きっと、姪に限らず小さき者たちはこのような能力を多かれ少なかれ持っているのであろう。
彼らから学ぶことはずいぶんと多いし、笑わせてもらってばかりである。
これからどんどん言葉を覚えていくであろう姪たちとの会話や、姉妹それぞれの個性がますます強くなるのが今から楽しみだ。

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