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1800秒

何度か躊躇ってから僕は車内へと踏み込んだ。飽きるほど利用したはずの駅は、ぐにゃりと歪んで映った。ホームへ向かう案内板を頼りにしたのも、初めて高校に向かう日以来だったかもしれない。
金曜日のいつもより幾分弛緩した空気の中、僕は約束を果たすために構内を進んだ。チクタクとなる腕時計の音が煩わしかったが、毟りとろうとした手を止めてポケットにしまった。
車両の最前列に立つ。車掌室が見える一等席。僕はゆっくりと反芻する。

 1番前の車両で、彼女を待つ。できれば目を開けて。そうでなければ、肌で。

私のことを決して忘れないでほしいと、初めて告げられたのは半年も前だった。校舎の屋上で、とりとめのない会話に差し込まれたそのフレーズは元より頭に残っていた。

自分がやってきたこと、出会ったこと、頑張ってきたことを誰かに覚えててほしいんだ。誰でもいいんだけど、君ひとりに。

不可解な申し出に、なぜ自分にそんなことを告げるのか訊ねた。だから、誰でもいいんだって。彼女は口元で笑った。そして理由にもならない理由を告げた。

彼女がその時何を考えていたかなんて僕には知る由もなかった。クラスも異なる彼女について知っていたのは、控えめに付けられた褪せたリボンと、衣服から覗く跡、それだけだったから。

そんな鈍い僕でも、昨朝の約束は守らねばならないとわかった。そしてそのために、今ここに立っている。

肌を刺す1月の寒さは暖房にいくらか弱められているようだが、身体の奥底から湧き出る震えは収まることを拒んだ。淡々と加速する車体は、80キロにまで速度を上げた。

7:10
7:11
7:12
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7:13

最高速度に達した時、その衝撃が僕の肉と骨を揺らした。目を、逸らしたことをこれからも後悔するとしても、僕は約束の半分しか守ることができなかったと知った。指先が軋むほど握った手摺からは、温度はまるで感じられなかった。

1番前の車両で、約束を叶えに。僕は確かに、彼女を忘れることはない。
彼女の傷の意味を、停車した電車の中で、ぼんやりとずっと考えていた。

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