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甘いのか、それとも情が深いのか?辻監督6年間の監督生活を終える

ヘッダー画像は埼玉西武ライオンズ公式Instagramより拝借しました

10月9日、福岡PayPayドームで行われたクライマックスシリーズ1stステージ第2戦に負け、ライオンズは敗退。この試合が辻発彦監督にとって最後の采配となりました

父親の車に乗って、生まれ故郷の佐賀から平和台球場まで連れて行ってもらい、西鉄ライオンズの試合を見ていた辻少年にとって、西武ライオンズの選手となり、埼玉西武ライオンズの監督となって、旧平和台球場からほど近い福岡PayPayドームでライオンズのユニフォームを脱ぐというのは、何か因縁めいたものを感じます

何かを検証するかのようなタイトルにしましたが、検証する気はなく「辻監督の思い出」をただただ語る(書く)noteです

だったら「辻監督と私」でも良いのですが、直球すぎるかなと思い、変化球を投げてみました

私の思い出語りにお付き合いいただければ幸いです


1975年生まれの私が野球に興味を持ち始めたのは小学2~3年生のころだったか。大阪に住んでいたのでタイガースと、父親が大の"長嶋フリーク"だった影響でジャイアンツの試合を多く見る環境ではあったが、特に好きなチームと言うのはなく、なんとなく見ていた記憶がある

そんな中、地元の野球チームに入って、少しずつ野球にも詳しくなってきた1985年、私は二人の選手にあこがれを抱くようになる

一人は閑散とした川崎球場の外野スタンドにいとも簡単にホームランを打つ落合博満

もう一人はPL学園の4番打者として大活躍し、実況アナウンサーから「甲子園は清原のためにあるのか!」とまで言わしめた清原和博

そして清原がライオンズに入団したこともあり、TV中継も増加。当時関西には阪急ブレーブス、近鉄バファローズ、南海ホークスと3球団あり、特に阪急と近鉄は強かったので、王者となりつつあった西武への対抗意識もあって、地上波で放送される機会が増え、徐々にライオンズファンとなっていきました


そして1987年に行われたジャイアンツとの日本シリーズ、3勝2敗とライオンズが王手をかけた第6戦。あのプレーが起こります

2-1とリードした8回裏、2アウトから辻がレフト前ヒットで塁に出ると、続く秋山幸二がセンター前にクリーンヒット。深めに守っていたW.クロマティが「どうせ三塁にいくんでしょ。分かった分かった」とばかりにゆっくりと捕球し、山なりのボールを返球する

しかしライオンズはシリーズが始まる前から、クロマティの守備が緩慢なので、隙をついてホームまで還れと作戦を立てており、おあつらえ向きの状況になったため、伊原春樹三塁コーチも腕をぐるぐる回し、辻も一切スピードを落とすことなく三塁を回る

カットに入った川相昌弘もまさか三塁を回るとは思っておらず、背中を向けたまま三塁方向に身体を回転せず、一塁方向へ回転したため、本塁へ投げるまでに無駄な時間を要したこともあって間に合わず、ここに"伝説の走塁"が完成しました


12歳ながらにこのプレーには衝撃が走ったのを記憶しています。とにかく今まで見てきた野球とは全く違う。そのレベルの高さに感動し、これが私をライオンズファンへと背中を押してくれた瞬間でした

そして今日まで35年間、多少熱が冷めた時期もありましたが、それでも他の球団を応援しようと思ったことはなく、辻選手は私をライオンズファンにさせてくれた恩人なのです


月日は流れ2016年、チームが3年連続Bクラスと他球団のファンからは「その程度で?」と言われそうですが、私を含め多くのファンが強いライオンズしか知らないこともあり、3年と言うのは十分なぐらい「暗黒時代」でした

そんな中、シーズンも終わりに近づいた9月ごろに次期監督候補として、スワローズの名ショートだった宮本慎也の名前が上がります。社会人時代、プリンスホテル出身の選手だったこともあり、信憑性のある記事で実際交渉にも入ったようですが、その後この話は立ち消えとなり、ライオンズOBでもあり、ホークスの監督として二度の日本一にも輝いた秋山の名前もあがりましたが、この話もフェードアウト

すると当時ドラゴンズの一軍コーチを務めていた辻の名前が候補として挙がってくる

私にとっては"恩人"の帰還は嬉しい半面、一抹の不安もありました。それは選手・辻発彦の輝かしい成績に比べ、指導者・辻発彦の評判があまり伴っていない事

森祇晶監督に請われ、ベイスターズのコーチに就任するも、現役当時のライオンズはガチガチに硬いチームカラーだったこともあってか、ベイスターズの雰囲気とはかみ合わず、森監督がシーズン終了を待たずに解任。宙に浮く形となったその後は二軍コーチに配置転換されるが、目立った結果は残せなかった

その後は落合博満監督からのオファーを受け、ドラゴンズの二軍監督になるも、2008年には俗にいう"森岡事件"の当事者として、悪役のような扱いになるなど、指導者として高い評価を受けることは少なかったように思う

また監督就任が決まってからは、現役時代を知る先輩の田尾安志、後輩のデーブ大久保から、いまの若い選手とは気質が合わないのでは?と心配されていたし、2018年の話にはなるが、ライオンズへ復帰した松井稼頭央は春季キャンプ中の応援番組で「辻監督とは一緒にプレーしてるが、春季キャンプの時、胸の位置に投げないと捕ってもらえなかった」とコメントして、同席していた金子侑司や源田壮亮が若干引いていたのを記憶している

この様な心配をされつつ、ライオンズとしては17代目【※来日することなく契約解除された、レオ・ドローチャを含めると18代目】の監督に就任

当たり前とは言え、就任当初は硬い表情なのがよく分かる


ちなみにライオンズの歴代監督は第一候補がそのまま決まらず、第二、第三候補の人に収まることが多い

広岡達朗監督も長嶋茂雄、上田利治といった監督候補に断られたのちに声を掛けて決まったし、東尾修監督も石毛宏典に現役引退し、即監督のオファーを出したものの断られ、挙句にFA権を行使してホークスに移籍される始末。その結果、晩年に起こした麻雀賭博の一件もあり、本社筋から嫌われたとも言われていた東尾に声が掛かった

伊原(第一次)監督も当初は、数年前から球団が温めてきた伊東勤監督構想を実行に移そうとするも「現役に未練があり、少し待って欲しい」と固辞したため、つなぎの監督して決まったもの

つまり第一候補で決まることが少ないし、それで成功を収めている人も多く、悲観的になる必要はないのである


辻監督が就任して分かったことがたくさんあり、その一つが起用法について。2017年に向けてのスローガン発表会見の際

有望な若手には、浮上のきっかけをつかむチャンスも与える。
「もう1打席、もう1イニングで変われることもある。そこの芽をつまないようにしたい」
ボードには「気を長く」という意味で、縦長の「気」の文字も書き加えた。

2016年12月26日「日刊スポーツ」より

と語っており、我々ファンが「もう替えた方が良いんじゃないか」と思っても、我慢に我慢を重ねる起用法は就任当初からの信念であったといえる


また栗山巧に対して「オフはとにかく走ってこい」と叱咤激励した上で

「プロだから、やれていないと感じれば、いくら功労者でも外すこともあると思う」とも言う。

2017年2月13日「日刊スポーツ」より

とも語っており、それまで栗山と中村剛也を中心にしてきたチームから、秋山翔吾と浅村栄斗を中心にしたチームへ若返りを進めたところなど、思い切ったチーム改革も宣言通りだった


そしていい意味で意外だったのが、選手に対して積極的にコミュニケーションを取ること


三盗について、主に走られる側の中村や浅村、走る側の秋山や源田壮亮など全員に監督自らコンセンサスを取るのは珍しいと思うし、命令ではなく、同意を求めたのも辻監督のスタイルでした

このスタイルは年を追うごとに浸透していき、水上由伸などは軽口をたたくぐらいになるほど


TV中継の時、この逸話を聞いた解説の宮本慎也は「僕には恐れ多くて…」とコメントしており、いかに現役時代、怖い存在だったことが窺い知れる



また髙橋光成と今井達也に対する接し方にも配慮があり、高橋には「QSをクリアしてホッとするのではなく、もっとどん欲に投げてほしい」など、長男格としてある程度強く言っても大丈夫と判断した故のコメントを残すことが多かったのに対し、次男坊で繊細な性格と判断した今井には少々の四球には目をつぶり「あいつはアレで良いんだ」と褒めるコメントを多く残していました

時を同じくしてタイガースの藤浪晋太郎が制球難に苦しみ、注目度に差があり仕方がない部分もあるとはいえ、それを関西のマスコミ、OBなどがことさらにダメだしするものだから、袋小路に入っているのを見ていただけに今井本人の努力があってこそとはいえ、つぶれずに成長しているのは本当にありがたく感じます


ただ現役時代も、ただピリピリしていたのではなく、人に厳しい代わりに自分にも厳しいのを周りの人たちは知っていたので、不平不満は起こらなかったのではないかと推察します

そして監督インタビューでのコメントを聞いて特に思ったのが、根が陽の人なんだという事。現役時代は隣に超が付くほど陽な人【※石毛宏典】がいたので気づかなかったけど、常に前向きなコメントを残してくれて、少々負けても我々ファンが後ろ向きにならずに済み、本当に助けられました


また辻監督をはじめ、同世代の選手は広岡監督と森監督、双方の下で現役時代を過ごしているが、多くの選手が広岡監督に対して「とにかく厳しかったが、今となっては野球選手としての基礎を教わり感謝している」といったコメントを残しているのに対し、森監督に対するコメントが思いのほか、出てこない

渡辺久信GMは著書「寛容力 ~怒らないから選手は伸びる~」の中で、森監督に対し「選手を見抜く目の大切さ」が素晴らしいと語っているが、その一方で1989年、R.ブライアントに決勝ホームランを打たれた有名な場面について、データでは高めのストレートか低めに落ちるフォークが有効とあり、その通りに高めへストレートを投げたが、勝ち越しのホームランを食らう

そして打たれた後、ダッグアウトへ戻るところを追っかけてきて、
「ナベ!なんでお前、あそこでフォークを投げないんだ!」と叫ぶように言われたそうです

バッテリーを組んでいた伊東と考えて出した結論(高めへのストレート)に対し、叱責された経験を踏まえ「結果論では話さないと決めた」と書いており、反面教師にしたと言っているに等しい内容。他の選手も多かれ少なかれ森監督に対し、コメントが少なくあまりいい印象を持っていない様子がうかがえます

そんな中、辻監督は「選手時代、優勝争いをしている試合で自らのミスによって負け、自宅で責任を痛感していた時、森監督から直接お電話があり
『お前のおかげで何試合勝てたと思ってるんだ。今日の事は気にするな』
とフォローしてもらったことを今でも覚えている」と事あるごとに語っており、これも俗にいう"懲罰交代"をしない起用法であり、ミスしたのは(上手くいかなかった)のは本人が一番分かっているはずという信念のもと、追い打ちをかけるような叱責はせず、翌日にあえて監督自ら"イジり"にいって和ませるコミュニケーション術などに表れている

何より広岡、森の両氏に対し、どちらにもポジティブな面をコメントしていて、バランス感覚に長けているのも見逃せない点である


作戦面においては犠打を多用しないスタイルもかなり衝撃的でした。現役時代、最も長かったのは森監督時代ですが
「森野球と言えば?」と聞かれたら、
「犠打」と答える人がTOP3に入るだろうと思うぐらい印象深く、監督生活9年間はすべて100個以上の犠打を記録しています

1986年:119個(0.92) 2位
1987年:109個(0.84) 3位
1988年:129個(0.99) 1位
1989年:169個(1.30) 1位
1990年:170個(1.31) 1位
1991年:160個(1.23) 1位
1992年:145個(1.12) 1位
1993年:142個(1.09) 1位
1994年:105個(0.81) 2位
※()内は1試合当たりの犠打数、順位は犠打数のリーグ内順位

今ではセイバーメトリクスによる考え方が知られるようになり、犠打は得点効率を下げる作戦と広まったことでメジャーリーグほどではないものの、日本の野球でも減ってきています。しかし当時は犠打をしないのはギャンブル性が高く、忌み嫌われていた感もあり、勝ち続けたライオンズが積極的に行っていたことから、むしろ称賛されることの方が多かったように思います

そして1990年、ライオンズが最も強かったとも言われるシーズン、1試合当たり1.31個はパ・リーグ創設以来、最も高いシーズンでそのチームの中心人物であった辻選手が監督に就任したら、パ・リーグで最も犠打の少ない野球を行うのですから、そりゃ驚きます

2017年:93個 6位
2018年:48個 6位
2019年:78個 6位
2020年:60個 6位
2021年:83個 5位 ※バファローズ80個
2022年:78個 6位

こういった型にはめない臨機応変な考え方が投手陣の弱さを強力打線(山賊打線)でカバーした2018~2019年のリーグ連覇であり、打てなくなった代わりに投手陣がカバーして、前年最下位から優勝争いに食い込んだ2022年の様に、真逆のチーム作りに成功した要因なのでしょう

ただしその辻監督がこだわったのが二遊間の守備。セカンドは2018年まで浅村、2019年以降は外崎修汰がレギュラーとなり、12球団すべての選手から選出される、DELTAによる守備のベストナイン『DELTA FIELDING AWARDS』では2020年から三年連続で受賞。ショートに関しては辻監督が就任した2017年オフのドラフトで獲得した"同期"源田壮亮が空位だったポジションに隙間なく入り、入団以来六年連続で受賞とまさに辻野球の申し子と言える活躍ぶり


辻監督は退任会見で

「やっぱり(自分の就任時に)ドラフトで入って来た源田の存在が一番大きかった気がします。あの子がいなかったら(2018~2019年の)優勝はなかった気がします。ライオンズを立て直すには、ショートで一番の選手が加わらなきゃと思っていた所に源田が来たりして。1年目から本当に守りだけでも十分に貢献してくれた。もちろん、森友哉や山川といったみんながそうなんですけど、やりたい野球は源田がいなかったらできなかった」

2022年19月9日「東京スポーツ」より

と語っており、中島裕之(現在は宏之)が移籍して以来、なかなか埋まらなかったショートの座を埋めてくれた功労者には我々ファンも感謝してもしきれないほどです





辻監督が退任し、来シーズンから松井稼頭央新監督の下でライオンズは新たな門出を迎えます




西武ライオンズにとって初の日本一に輝いた1982年から1985年までの第一期、1986年から1994年の第二期、計13年間でリーグ優勝11回、日本一8回とプロ野球界に燦然と輝く"ライオンズ黄金時代"はチームのアイデンティティとも言えるが、辻監督の退任をもってこの時代に関わった選手がライオンズのユニフォームを着ることはもう無いのだと思います

その意味でも松井新監督の就任はライオンズにとって、時代の終わりでもあり始まりでもある

個人的には初めてライオンズに年下【※1975年10月23日生まれ】の監督が誕生することになり、年度(学年)は一年違えど、ほぼ同年代と言うこともあり、PL学園のエースとして高校3年生の夏に出場した大阪府大会決勝戦をテレビで見ており、その後ライオンズへ入団してスーパースターへと駆け上がっていく姿をずっと見ていましたので、辻監督とは別の意味で感慨深いものがあります

不安があるとすれば、先に書いたようにライオンズが第一候補で決まった珍しい例であり、それが伊東勤監督であること

黄金時代の選手をFA権の行使で出ていかれたり、逆にトレードや戦力外通告などで出していく中、最後まで引き留め、温めに温めておいた「伊東勤監督構想」であったにも関わらず、わずか4年で喧嘩別れとなったのは痛恨の極みです

当時は西武グループの不祥事により堤義明オーナーが失脚し、チームの存続が危ぶまれ、裏金問題では高校生ドラフトの1~3位までの指名権をはく奪されるなど、ガタガタの状態だったとはいえ、あれだけの功労者と疎遠になったのは本当に勿体ない(監督を退任させたことが勿体ないのではなく、疎遠となり関係性が途絶えてしまったことが勿体ないという意味)

ただ当時と違うのは、後藤高志オーナー、奥村剛球団社長、渡辺GMとなり、血の通ったチームとなっていること。なので松井新監督へのサポートもしっかりしてくれるでしょうし、そこに関しては安心しています


また退任した辻監督とも円満な関係が築けているのもファンとしては嬉しい限り。辞めた(退任した)監督が改めて選手の前で挨拶するなんて中々ないことだし、11月23日の『LIONS THANKS FESTA 2022』でトークイベントを開催するのも異例です




退任されてからは息子さん(ヤスシさん)に勧められ、Twitterデビューを果たし、まあまあな頻度でツイートしてくれて、今まで同様フットワークが軽いな~と感じさせてくれます


6年間で2度のリーグ優勝を高評価するか、一度も日本一になれなかったことを低評価とするか、ファンの方も様々だと思いますが、この6年間を楽しませてくれたことに関してはただただ感謝あるのみです

ライオンズの監督は退任されましたが、まだ64歳で体形もキープされており、今でも動けるのは春季キャンプでの指導風景を見ていればよく分かります


学生野球資格回復研修を受けて、学生の指導をするもよし、社会人野球出身ということもあり、社会人の指導をするもよし、まだまだ元気な姿を見たい


6年間の監督生活、本当にありがとうございました


では👋👋

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