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サウナおじさん

湾沿いの工事現場の合間を縫うように敷かれた架設の歩道をひた歩く。通行人もまばら。たまにwoltのバッグを背負った自転車乗りが凍りついた道路をものともせずに軽快に走り抜けていく。スマートフォンが無ければ、Google Mapsが無ければ、電波が無ければ―きっと僕らはどこかしらのタイミングで引き返すことに決めただろう。ただ、これらが指針を指し示し、そこに僕らの青い点が向かい続ける限りは諦めずに済む。初めての道を、信頼をもとに歩いて行く。前を向いているのか、後ろを向いているのかでさえ、僕たちは衛星を通じて理解する。目的地が近づいてくると、頬を赤らめた二人組とよくすれ違うようになった。その変化にホッとしているそばから、夜空にぼんやりと浮かぶネオンの赤字。

木戸を開けると、店のすぐ奥に水着姿で休む男女の姿があった。極寒を歩き続けてきた僕たちとあまりに対象的な姿に、少し戸惑う。先客の受付が済むと、カウンターにいた長身の男性が施設について、サウナの楽しみ方について努めて易しい英語で話してくれた。
「ロウリュをする時は1分かけてゆっくりやるといい。そうすればいい気持ちになれる。それより早ければイマイチだよ。」
1分。先人の言うことは、まずその通りにやってみるのがよい。1分、1分と思いながら更衣室へと向かう。

背の高いシャワーで体を流して、サウナ室へ向かう。扉には「Enjoy Silence」の表記。「静けさ」という言葉にやや緊張しながら室内へ向かう。内部は逆L字型四段の構造で、その最上段にずらりと男性が腰掛けている。体を前傾させている人、壁に背中を預けて目を瞑っている人。聞き取れないぐらいの小さな声で友人と会話をする人。誰もがみな「静けさ」の中にあって、室内に満ちた熱の温度を味わっていた。壁の向こうは女性用のサウナらしく、そこからは絶えず楽しげな会話が聞こえてくる。フィンランド語の素養のない者にとって、その会話はBGMに等しく、ラジオを楽しむように、聞くでも聞かぬでもなく耳を傾けていた。

中央にあるストーブは、上に20センチ四方の穴が空いている。そこから水を流し込み、蒸気を発生させる仕組みだ。そのストーブは、逆L字の終わりのところに位置している。サンタクロースのように豊かに髭を蓄えた大柄の男性が、ちょうどそのところに腰掛けている。金色に光る産毛が全身を覆いキラキラと輝いているようだ―そのため、薄暗いはずのサウナ室の記憶は、僕の中ではまばゆい光とともに思い出される。ロウリュのための柄杓は、柄が長いため、その男性の位置からであれば、座ったままでロウリュができる。しばらく誰もロウリュしないタイミングがあると、その男性がロウリュをしてくれていた。受付の男性のアドバイスを思い出しながら、その男性のロウリュをじっと見る。はじめは勢いよく流し込むが、徐々にその勢いを緩めていき、30〜40秒ぐらいの間、それが続く。30秒ぐらいになる頃から、蒸気の熱がわっと立ち上がり、心地よい熱が室内を満たしていくのが感じられた。それより短い時間のロウリュでは、その感じはやってこない。1分というアドバイスの意味が実感を持って理解できた。

それならば1分かけるとどうなるのだろう。好奇心の塊になって、柄杓を手にする。そして、たっぷりと水を蓄えた柄杓を、ストーブの穴に少しだけ傾ける。努めてゆっくり、細長い水の紐を落とす。姿の見えないサウナストーンにそれが触れると、じわじわと心地の良い音が返ってくる。水の重みにか細い腕が震えるが、なんとなくストーブの縁に柄杓を置くのはもったい気がしたので、じっと堪える。蒸気の生まれる音を耳で聞き、徐々に軽くなる柄杓の重みを腕で感じ、少しずつ変化する室内の温度を肌で感じ、やがて感覚は柄杓の先まで拡張していき、音・重み・熱と時間が溶け合っていく。保持運動と熱の感覚でカウントのペースが早まっていく。それならばと、60を超えても、しばらくカウントを続けて、ゆっくりとじっとりと水を落とし切る。

1分。水を注ぎ終えると、ふと我に帰って少しだけ恥ずかしくなる。やりすぎたかなと思いながら柄杓を桶に戻すと、「Kiitos.」という声。声の主は、先程のサウナおじさんである。聞き間違えかしらと思いながら、妙に嬉しい気持ちで席に戻る。正直、1分かけてロウリュをしても、しているこちらとしてはさほど変化を感じない。立ち位置の問題なのかもしれないが、そこまで劇的な何かを感じることはなかった。ただ、受付の男性が教えてくれた1分の魔法につい面白くなってしまった僕は、その後も2〜3回ほど、同じようにロウリュを繰り返した。その度にサウナおじさんはやはり「Kiitos.」と、ようやく聞こえるぐらいの低く、小さな声で返してくれるのであった。せめて「どういたしまして」ぐらいは言えるようにしておくことが礼儀であった。ただ、後にも先にもサウナおじさんが「Kiitos.」と言ってくれたのは、僕のロウリュだけだったことを思うと、特別な思い出の一つとして記憶された。

ところで、ロウリュに夢中になる僕の姿を見ていた同行者からは「完全にキマっていた」と冷やかされた。実際、1分の魔法にかかっていたのは僕だけだったのかも知れない。


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