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「冒険」と「信頼」

施設のあちこちに暖房が行き届いている地域に比べて、東京で感じる寒さには堪えるものがある。「青森の出身だから寒いのは平気でしょう?」という質問は、これまでもこれからも続いてくことだろうが、寒さには質感の違いがあることは広く知られるべきだろう。メディアで報じられている気温に比べて、東京で感じる寒さは辛い。今時分、教室に居残って作業をしていると、帰る頃にはすっかり底冷えを起こしている。

ただ、フィンランドの寒さはたしかに厳しい。わずか8日間ほどの滞在であっても、この地の冬の過酷さの一端を窺い知ることができた。国内ではサウナに対して、一切関心のなかった僕でさえ、フィンランドで味わうサウナには特別なものを感じて、すっかり魅了された。僕の海外研修の話を噂に聞いている相手から「今度の宿泊には、フィンランドサウナ付きの宿も選べますがいかがでしょうか。」と相談を持ちかけられると、二つ返事で「その宿でお願いします」と答えている始末である。初夏を迎えつつある関東の地で、その時の僕が一体どれだけサウナを所望しているかどうかは分からないが、少なくとも今の僕にそれを断る理由が見当たらなかった。

そんな寒さも、帰国した直後に比べると、ずいぶんと遠いものとなりつつある。さすがに一週間も経ってしまったのだから当然といえば当然のことである。一方、滞在中に出逢った人たちとの時間のことは、むしろ時間を増して醸成され続けているかのように濃度を増している。帰国後の一週間は毎日のように現地の仲間を語らう夢を見ていた。知人・友人・家族の出てくる夢というものを滅多に見ない僕にとって、これは驚くべきことである。夢の中では現地での会話がそのまま再生されることもあれば、実際にはなされていない会話が創造されることもしばしばあった。いずれの場合も、目覚めてみてもリアリティを感じられるものばかりであったから、これだけ短期間のうちに、よくぞこれだけその人らしさを感じたものだなと思う。強烈な睡魔に襲われながら泥のように眠り、気付くと2時間半程度で覚醒する。そんな夢とも現とも分からない眠りを繰り返し、心と体を徐々に帰国させていった。

旅先で読むために、数冊の本を持っていくこと。そして、そのうちの最低一冊はエッセイや自伝であることは、もはや自分の中で当然のものとなりつつある。今回の滞在では、せっかくならとトーベ・ヤンソンの初期短篇集と自伝的小説の2冊を持参した。後者の『彫刻家の娘』(原作1968年・邦訳1991年)は、ムーミンコミックスに夢中になっていた学生時代に読んだことのある作品だったが、その内容はすっかり記憶から抜け落ちてしまっていた。かつての僕が施したドッグイヤーの意図が思い出せない箇所がいくつもあったが、掌編「アルベルト」の入り口には、今の僕も間違いなくドッグイヤーをしたに違いない。そういった自分の感性の変化なども感じながら、読み終えたのは今日になってからのことだった。
その巻末にある訳者・冨原眞弓氏の「あとがき」によると、トーベ・ヤンソンにとって、彼女の父親ヴィクトル・ヤンソンは「冒険」を象徴する存在であり、彼女の母親シグネ・ハンマルステン・ヤンソンは「信頼」を象徴する存在であったようである。

「この基本的な「信頼」があってこそ、自分の可能性をためすために、少女は大胆に「冒険」にとりくむことができたのです。」

今回の視察ツアーを振り返ると、そこには父親のような存在、母親のような存在、そして兄弟姉妹のような存在が大勢いたように思われた。僕は彼らの人柄にすっかり「信頼」を寄せ、気ままに「冒険」をさせてもらっていたようである。なんだそういうことだったのかと、ようやく彼らに宛てた言葉を手に入れられたような気持ちでいる。




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