瓶底ナトリウム 【後編】
↑前編はこちらから。
さて、女の子が古い小屋を開くと ふうわりと潮の香りと湯気が漂ってきた。
とても粗末で、味気なくて、見てるだけでも寒いその小屋にひとつ、大きい鍋にたっぷりのスープ。それをかき混ぜる、背丈の高い後ろ姿。
なんだか、この小屋の持ち主のヤマンバはとっても毛深いようだ。というか そもそもヤマンバに見えない。なんか凄く毛むくじゃらだし、凄く獣臭するし、毛むくじゃらの癖して爪だけ立派に尖ってるんだもの。
女の子は呆気に取られて声も出なかったが、その大きな毛むくじゃらは無言でスープを差し出した。潮の香りはこのスープ、ということはシーフード風味なのかもしれない。美味しそうだ。
多分、食えってことなのだろう。
シーフード。シーフード。
気付いたら女の子はスープを口にし、そしてまた口にして、一気に飲み干した。
ヤマンバのスープだった。 ここにいた、本当のヤマンバの入ったスープだった。
それに気付いた時、女の子はこの小屋から逃げるか一瞬迷ったけれど、好奇心が止められなくてそのまま居座ることにした。
食事を済ませたあと、毛むくじゃらは 女の子を抱きしめてきた。なんか、変な匂いがした。 そもそもいきなり過ぎて、何もわからなかった。
それでも毛むくじゃらはほんのり暖かく、血の巡る音が微かにするので、ああこの人も生きているんだなって そう思ったらなんだか安心した。
どうしてヤマンバの小屋を乗っ取ったのか、どうしてヤマンバをスープにしちゃったのか。
色々聞きたいことはあったけど、毛むくじゃらの奥に見えるオホーツク海のような目をみたら、もう何も言えなかった。大量の毛に覆われた、 冷たいガラスのような瞳。きっとこの人は、私と違うさびしさのいきもの。
さびしいもの達は、床にそのまま寝転がる。 屋根は若干穴が空いており、今日が雨じゃなくて良かったと女の子は思った。
月明かりしかない、さびしくて寒い小屋で、いきものたちは身体を寄せあった。
鼻の脳裏に、毛むくじゃらの変な匂いを焼き付けるように。 ばっちいはずなのに、妙に手触りのいい毛を何度も何度も、何度も。 気が付くと、心があふれていて、塩水もあふれていた。
女の子は、たくさんないた。 海が出来ちゃうくらい、たくさんの塩水を流した。 毛むくじゃらは何も言わず、ただその鋭い爪で、女の子の小さな背中を抱えるだけだった。
いきものたちは一度も言葉を交わさなかった。言葉を交わさなくてもよい、ぽつんとした時間だった。
数時間に女の子涙が枯れた瞬間、世界は暗転して
毛むくじゃらも、ヤマンバの小屋だったものも、なんにも無い。元々いた 自分の部屋に戻ってきていた。
潮の香りはもうしない。 毛むくじゃらの、変な獣臭もしないし、部屋の中は空調が効いてて快適な温度。屋根もちゃんと塞がってて、木目が不気味な天井だ。
自分の為だけの、快適な温度と空間。
それでも、あの生きたぬくもりにはかなわない。
ああ。明日からまた、言葉を山ほど交わしていかなきゃいけない。あのような静かな夜は、もう来ない。
もう、来ないのだ。
ぽつん と
塩水が
小瓶にひとつぶ 跳ねる音がした。
おしまい
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