産まない理由

子供は出来たら産みたくないなぁと、20代の頃から思っていた。
当時は九州にいて、結婚して子供を産むのは当たり前だという空気だったので自分もそうせねばならないのだろう、と思っていたけど、どうしても子供を産み育てて幸せを感じている自分の姿が想像できなかった。本当にそんな重大な任務を遂行出来るのか、と不安で仕方なかった。

そして30手前でADDの診断が降りたとき、「出来たら産みたくない」が「絶対産まない」に変わった。
ADDな自分の子育てが地獄なのは想像に難くない。自分の面倒もろくに見られないんだから、きっと家事はろくに出来ず旦那に叱られ泣きわめく子供を抱えてノイローゼになる。
子供だって私の遺伝子を受け継ぐのだからきっとまともには産まれない。私の子供時代のように生きてて申し訳ないと思うような半生送らせるのは忍びない。
私が、子供のために変われるような人間じゃないのは明白だ。私はなによりも自分の快楽を優先しないと我慢ならないのだから。
どんなにサポートが充実しようが保育園に全員入れるようになろうが、キャリアの分断がなかろうがベビーカー問題が解決しようが無痛分娩が選択できようが旦那が協力的だろうが関係ない。

しない後悔よりする後悔、というけど出産に関しては逆だと思う。
もし産んで後悔しても遅いのだ。自分の失敗は自分が背負えばいいことだけど、産んでしまえば子供の人生を背負わねばならない。子供も「自分を産んだことを後悔している」母親に育てられてしまう。不幸の連鎖だ。

等々、理由をつけて産まないと決め、結婚も子供と奥さんと明るい家庭を築きたいなんて言わないような人を選んだ。

自分の選択は正解だったと思う。
仕事に全力を注ぎキャリアアップについて考えたり時には講座に通い勉強して、稼いだ金は趣味につぎ込む。毎日とても充実している。
でも、なにかとても後ろめたい。
周りの友人知人が次々と出産して、子供の成長に一喜一憂する姿をTwitterなどで見ていると、みんながもってる「とても価値のある」ものを自分だけ持ってないんじゃないかと思ってしまう。自分が知らない素敵な秘密を皆が共有している気がして疎外感にさいなまれる。
私にとてもよくしてくれる義両親に孫の顔を見せられないことを申し訳なく思ってしまう。
自分は社会の一員として果たすべき義務を果たしていないのではないかと思う。

だから、少子化には実はほっとしてるのだ。
自分と同じ、産まない人間がこれだけいるんだ、と。

こんなに産まないことを後ろめたく思うのは、上でつらつら述べた理由の他に、「母親の思い通りの人生になってしまった悔しさ」も含まれているなぁと最近気づいた。

母親には、「結婚するな、一人でいろ、子供なんか産まなくていい」と言われ続けてきた。私だけでなく妹たちも同じような言葉を浴びてきた。
母親は、娘たちが女になること、妻や母親になることを望まない人だった。
ずっと娘であり自分の良き友人であり保護者でありカウンセラーであることを私たちに要求してきた。
一番下の妹が結婚すると言い出した時は、ひどい罵声を浴びせ「こんなことなら産むんじゃなかった」とわめき、私達に「あの子はほんとは産むつとりなかった。二人で打ち止めのつもりだったけど出来ちゃったから仕方なく産んだ」と笑いながら言った。私も上の妹も、結婚するときには義両親や夫になる人に無礼を働かれ大変な恥をかかされた。

産めば母性本能が働くとか、子供によって親も成長するとか、全部嘘だと自分の母親に証明されてしまったのだ。親に向いてない人間は確実にいるし、向いてないことを無理にするとろくなことはない。

だから正解なのだ。(二度目の言い聞かせ)

でも、だからこそ。
母親がかけた呪いを解けずに死ぬのか、と考えたりもする。
下の妹は、母親に知らせず子供を産んだ。
なので母親には孫がいる。けれど娘全員に絶縁されているので、多分死ぬまで孫がいることは伝わらないだろう。
妹とは滅多に連絡はとらないけど、ラインの書き込みを見ている限りとても幸せそうだ。

私も旦那と二人でおもしろおかしく暮らしている。とても幸せだ。

でもどちらにせよ、呪いがつきまとってる気がしてならない。
これは子供を産む産まないでなく、自分から離れて幸せになってはいけないという母親の呪いなのかもしれないなぁ。

でも、こういうことを書けるようになったのは進歩だと思う。

家の恥を全世界に晒してやったぞざまあみろ、という気持ちで大変清々しい朝なのだった。

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