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毎日更新の記録が途絶えて

何かを投げ出すことや、途中でやめることが苦手だ。

始めてみて、「うーん、これはちがうな」とすぐにやめたり飽きたりすることはよくある。でも、「これは!」と思ったものや、決意表明したものを途中でやめることは苦手。

戦略的撤退も超苦手。損切りみたいなことは全くうまくできない。
結局のところ、努力・根性・気合いで生きている気がしている。

半年の183日までは毎日更新頑張ろう。

そうやって、半ば自転車操業的にnoteを更新し続けてきたのも、やめることが苦手だったからだ。せっかく続けてきたのになあ、な気持ちがあって、結局、更新し続けてきた。

noteを書く際は、頭をがらりと切り替える必要がある。

書き出しから終わりまでの流れを組み立てていくこと。
描きたい情景を頭の中に繰り返し思い浮かべて言葉に落としていくこと。
油断するとついつい堅くなる文体をやわらかくすること。

こうしたひとつひとつの作業には、日ごろ使っている脳みその部分とは少し違うところを使う。

それは、間違いなく楽しいことだ。

楽しいことなんだけど、頭を切り替えることが難しいときはある。

忙しいとき、疲れたとき、精神的余裕がないとき、もっとほかにやりたいことがあるときーー

そんなときは、自分という人間から執筆に必要な部分だけを切り剥がして動かしているような心地だった。楽しさももちろんあるにはあったけれど、疲れの方が大きくなっていった。

スコンとnoteのことを忘れたのは、そんな矢先だった。

目が回るほどの忙しさに見舞われて、目の前の仕事を終わらすことしか考えてなかった。ちらとnoteのことを考えたのは、確か20時ごろ。これが一段落ついたら、なんて思っていたら、0時をとうに過ぎていたらしい。

恋人からの「昨日のnote読んだよ」のメッセージで、はっと思い出したのだ。その日の更新をしていないことに。

「やっちまった」
と、息をのんだ3秒後にはまた作業に戻っていた。だって、終わらないんだもの。

そうして、そのまま更新することなく4、5日が過ぎた。だって、忙しいんだもの。

途切れた記録に対して、いま、悔しさや”やっちまった”の気持ちよりも、安堵の気持ちの方が大きい。

だって、自分からはやめられないのだ。
努力・根性・気合いの民の私は、”とぎれた”という結果が与えられて始めてやめることができる。
そうじゃないと、「なーにが忙しいだよ、気合いだよ気合い。ここまで続けてきたのにもったいないでしょうが」の心に、押される。

毎日更新のおかげで、こんな自分の弱い部分もよくよく見ることができた。
諦めないことは私の良さだと自負しているけれど、でも、戦略的撤退もできるようになりたいなあ。

4、5日noteを書かないでみて思ったのは、毎日更新の記録という縛りがなくなると、書き出すまでの億劫さは途端に強まる。
書き出してしまえばまあ大丈夫なのだけど、細々続けるということも、それはそれで大変なのかもしれないなあ、と思ったりした。

この忙しさは、もう少し続く。

やっぱり、書くことに楽しさはあるから、できる限り、細くても長く続けていきたいなあと思っている。


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