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「少年の日の思い出」について(前編)

ここに書いてあることの全ては素人による考察になります。
当然教育機関の指導要項等の基準に従うものではありませんので、くれぐれもここにある内容を学校の授業の参考にするようなことはお控えください。
いないとは思いますが、そのような場合、万が一この文章によって損害が発生したとしても私は一切の責任を負いません。
つまりディベートの参考にするとかはやめてね。

また、思ったより文章が長くなってしまったので前後半に分けたいと思います。


はじめに

「そうか、そうか、つまりきみはそんなやつなんだな。」

インターネットの海に浸っているとしょっちゅう目にするこの文言、
通称「エーミール構文」ですが、散々みんなで懐かしいねと振り返っている割に、元となる題材そのものについての議論が、少々勿体無い段階で止まっているように感じます。
ので、個人的にこの「少年の日の思い出」について感じている注目すべき点なんかを、今回はMBTIを絡めつつ記事にしてみたいと思います。

「少年の日の思い出」を語る私たち

この作品が教科書に載り続ける本来の意図

 時たま件の構文が話題になるたびこの作品について語る人が現れますが、今までの経験上、個人的には
「明日国語で議論するので意見をください」と質問する中学生
解答する「エーミール過激派」「僕過激派」
と言える内容が大半を占めているように感じます。

特にこの現状自体について悪いとは思いませんし、それぞれが好きなように意見を世界に向けて発信できることは素晴らしいことです。
しかし私からすると、その大半が、この作品が長年国語の教科書に載ってきた意味、議論をする題材として選ばれきた作品の持つ価値をあまり享受できていない人が多いように感じます。
私が思うに、この作品を掲載することの本来の意図は、上記にあるような「過激派」の生成ではないのです。もし「エーミールか、「僕」かのどちらかを肯定する価値観を身につけてほしい」という意図が教科書側にあるのなら、今日の日本では「国語」ではなく「道徳」の授業で事足ります。

つまり、この作品があくまで「国語」に載っている意味とは、何も「正しいのはどちらか」「どうするべきだったのか」を倫理的に、あるいは道徳的に決定し、子供達に教え込むことではないのだ、と私は考えています。


「正解」が設定されない中で「自分の意見・気持ちを伝える」ということ

私は、この作品の掲載意図とは

「正解がない中での意見発表の場」
「反対意見を持つ人がいる中で上手く自分の意見を伝える場」


として作品を機能させることではないかと思います。

残念ながら私自身はこの作品を読んだ年頃のことをよく覚えていないのですが、たとえ大人になった現在でも、この題材で「エーミール派」「僕派」で分かれてディスカッションを行うなれば、まぁパックリ二つに割れてしまうのではないかと考えます。

なぜなら、これはMBTIで言うところの「F型とT型」の議論だからです。
もっと言ってしまえばこの作品は、主人公「僕」が、Fi(内向的感情)とTe(外向的思考)の対立軸を意識するに至った話なのです。


 MBTIから見る「少年の日の思い出」

「僕」から見た「少年の日」

まず「僕」目線でこの作品を振り返ってみましょう。

【冒頭】
語り部は「僕」の友人。「僕」はもういい年になっていて(語り部に幼い子供がいるあたり30代くらいかな)、語り部と談話している。
語り部の蝶々コレクションに興味を示すも、今はもう蝶々採集はやっていないらしい。不愉快そうにそっとコレクションを置いてからそのわけを話し始める。

【少年の日について語りはじめる】


まず少年について考慮するべき前提をまとめると、

・流行りで蝶々集めを始め、2年目には夢中になって色々すっぽかすほどに
・蝶々を捕まえるのがめちゃくちゃ興奮した。そうない興奮だった。
・「ぼくの両親は立派な道具なんかくれなかったから」「壁のつぶれた間に、ぼくは自分の宝物をしまっていた。」「ほかの者は(中略)ぜいたくなものを持っていたので、自分の幼稚な施設を自慢することなんかできなかった。」
・なので珍しい蝶を捕まえても、妹にだけ見せるのが習慣だった。

→この時点で僕が強いFi傾向の持ち主、加えて自分の経済的な側面にコンプレックスがある人物(劣勢のTe刺激)であることがわかります。
あまり古い価値観で物事を語るのは控えるべきですが、男性のコンプレックスとして経済的なものは割と根深いものが多いように感じます。蝶々以前にも彼はそもそも周りに裕福な子が多く、格差を感じたことによるストレスを受けていたのではないでしょうか。

【エーミールに自慢しに行く】


そんななか、「僕」はその地域では珍しい青いコムラサキを発見。
「興奮のあまり、せめてとなりの子供にだけは見せよう」と思い立ちます。

参考までにコムラサキの画像をどうぞ

相手はご存知エーミール。「中庭のむこうに住んでいる先生の息子」です。
そして、彼に対する「僕」の評価はこうです。

「この少年は、非の打ち所がないという悪徳を持っていた」

「悪徳」です。非の打ち所がないことを悪徳と呼べるのはFiーTeぐらいのものではないでしょうか。人間多少の欠点がある方がかえって良いものだとするのに留まらず、マイナスなものとして扱う思考は年に対してなかなかのものだと思います。

しかし、そんな「悪徳」持ちのエーミールには案の定、
・20ペニヒくらいの値打ちはあるという「値踏み」
・展翅(てんし。標本にするため、昆虫などの羽をひろげること)の仕方が悪い。
・触覚が曲がったり伸びてる
・足が2本欠損している

という指摘を次々に受け、「自分の獲物に対する喜びは、かなり傷つけられた。」としています。このシーンではエーミールに対して「そんなに非難するなんて酷い」という最もな指摘ができるのですが、一方でもう一つ大事な点があります。

「僕」が蝶々のことを「獲物」と呼んだことです。
先ほど述べたように、僕には経済的なハンデがあります。彼には自慢できることが少ない、というかほぼないらしいのです。そんななか手に入れた趣味、珍しい蝶という存在を、彼は自分のコンプレックスを埋めてくれる「獲物」「成果」として見ているのです。
私は長年、どうしてわざわざエーミールに蝶を見せることにしたのか、そんな「悪徳」なんて呼ぶ相手に。と疑問に思っていたのですが、おそらく「僕」なりの反骨精神だったのだと思います。

「この珍しい蝶でエーミールをギャフンと言わせてやるんだ」と。
そうすればこのコンプレックスも少しは埋まるだろうと。

しかし、「僕」の周りの裕福な友達ならまだしも、相手はエーミールです。先生の息子で、珍しい蝶の修復技術すら持っている彼に、そんな自尊心の拠り所を「値踏み」され、「非難」されたことにより、「僕」は二度とエーミールに見せませんでした。
ここでもやっぱり「僕」は「獲物に対する喜び」等々自分の情熱や感情、Fiを優位に機能させているのがわかります。


【エーミールのヤママユガ】


さて、時間は2年後へ。「僕」は「もう大きな少年になってい」ますが、未だ蝶の採集に対する情熱は絶頂だったとあります。そんななか、「僕」はかのエーミールがヤママユガを蛹から孵したという噂を聞きつけ、昼食後すぐにエーミール宅へすっ飛んでいきます。

ヤママユガ

この時「隣の家の四階まで登って行った」「小さいながら自分の部屋を持っていた」とあり、エーミールの家庭が相当裕福であることがわかり、「それがぼくにはどれだけうらやましかったかわからない。」とするあたり、やはり「僕」にとって貧富の差が気になるようです。
これは憶測ですが、「隣の家の四階」に昼食後ひょいと登れるあたり、そして盗みに関しては「生まれてはじめて」と書いてあるのに対し、こちらは描写から淡々とした様子が伺えます。ひょっとすると蝶見たさに不法侵入ぐらいはしたことがあるのかもしれませんね。

その後、エーミールの部屋まで運がいいのか悪いのか、誰にも会わずに辿り着いてしまいます。ノックをしても返事がなく、せめて件の蝶だけでも見たいとついに部屋に侵入。机上で乾かしている最中のヤママユガを発見します。

ここで、彼は「生まれてはじめて盗みを犯し」ました。最悪の生まれてはじめてです。この時の気持ちは「満足感のほか何も感じていなかった。」

しかし、右手に蝶を隠して階段を駆け下りる途中、下の方から誰かが上がってくるのが聞こえ、自分の下劣さと見つかるかもしれないという不安に襲われた彼は、思わずコートのポケットに蝶を押し込んでしまいます。
その後元に戻そうとエーミールの部屋に帰るも時すでに遅し、蝶は見るも無惨に崩壊してしまっていました。

ここで、「僕」に関して決定的な文章があります。
盗みをしたという気持ちより、自分がつぶしてしまった、美しい、珍しいちょうを見ているほうが、ぼくの心を苦しめた。」
おそらくエーミール過激派の方が見たら卒倒するでしょう。恐ろしいまでのFiの優位さです。僕は、あくまで蝶の熱狂的なファンであり、信者であり、そして簒奪者です。ここにエーミールとの分かり合えなさがありそうです。

その後冒頭で紹介したあのセリフが出てきて、「僕」は家に逃げ帰り、大切な蝶のコレクションを全て破いてしまいました。

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