「容姿」と「風貌」。
『人は見た目が9割』という本がある。
この場合の“見た目”とは、雰囲気や話し方を含めた〈風貌〉のことだ。
要するに「人は人の風貌を見ていますよ」ということ。
一方、世の中には「人は容姿が9割な人」も一定数いる。
〈容姿〉すなわち顔やスタイルで人を判断する人のことだ。
私がそのような人に初めて出会ったのは、大学生の頃だった。
私の大学はいわゆる“美人”が多いことで有名だ。
顔が整っている人、スタイルがいい人が山ほどいる。読モやサロモ、芸能活動をしている人も多かった。
入学式の日。
大学構内に入った時、周りの友人や先輩方のあまりの美しさに圧倒された。自分が場違いなのではと萎縮してしまったほどだ。
それでもまだこの時は“みんな私と同じ大学の学生に変わりない!”と信じて疑わなかった。
しかし、いざ大学生活が始まると徐々に“容姿による扱いの差”が目に見えて現れ始める。
まず、サークルの新歓。
私の時には目もくれなかった先輩たちが、美人な新入生を見つけると一目散に駆け寄り勧誘する。
意識過剰だと思われるかもしれないが、少なくとも私にはそう見えたのだから仕方がない。
サークルに入った後も、“先輩基準の美人”と“そうでない人”との間に表れる明らかな対応差。
“可愛いは正義”とは言うが、本当にそうなのだなと思った。
昔サークルの先輩に言われたことがある。
「A子とお前は俺のお気に入りだよ。ただ、A子は『AO入試』でお前は『一般入試』だから。」
もちろん実際の入試方法ではない。たとえ話だ。
A子は女優・夏帆さん似。
先輩はA子の「顔」と「スタイル」を気に入っていた。先輩基準の美人だったから好きになったそうだ。
それはまるで『AO入試』のようなもので、顔という一芸があったから先輩のお気に入りという枠に合格になったみたいなことらしい(たしか先輩はこう言っていた)。
対して私は先輩がいう“美人”ではない。
そんな私が先輩のお気に入りになれた理由を聞いたら「明るく陽気なキャラクター」と「ギャグセンス」だと言われた(とにかく笑わせることが好きなので、そこには確かに自信があるけども)。
顔やスタイルでは勝てないから、正規のルートで好感度を上げ、合格に達する。
まさに『一般入試』みたいなものだと先輩は言った(本当にばかげてる。書きながら若干イライラしてきた笑)。
容姿の違いで、同じ土俵にすら立てないのかと驚いた。
先輩の発言と同様にびっくりさせられたのが、とある女友達の行動だ。
彼女はInstagramキラキラ系女子。
Instagramに相当なこだわりを持っているようで、彼女の中で“映える”と思ったモノしか投稿に載せない。それは人とて同じだった。
彼女基準の美人はInstagramの本投稿に載る。
それ以外の人はよくてストーリーか全く載せないかだ。
私は後者の人間だった。
その事実を知らずして、初めて自分の顔をスタンプで隠された写真のストーリーを見たときは本当にびっくりした。
いつだったか彼女が言っていた。
「キラキラした友人たち(彼女基準の美人)とよく遊ぶんだけど、一緒にいると気を張るから疲れるんだよね...。本音を喋れないし...。」
彼女曰くキラキラした友人たちはあくまでInstagram用だという。
現代は友人の容姿にまで“映え”を求める時代なのかとぞっとしたのを覚えてる。
これらの出来事を経て、私は容姿について本気で考えるようになった。
別に容姿を褒めること自体が全くダメだとは思っていない。褒められて悪い気がする人はいないはずだから。
問題は、自分の基準を勝手に相手の容姿に押し付け、容姿によって人の見方を変えることだ。
自分の基準に満ちているからと言って相手の内面を見ようとしないも、
反対に自分の基準に満たないからと相手をぞんざいに扱うのもよくない。
〈容姿〉より〈風貌〉を見るべきであり、1番重要視すべきは“その人の中身”だと思う。
世の中には他人からの容姿の選り好みによって傷ついている人も多いはずだ。
中学から大学にかけては若さからぐさぐさと刺さる発言や行動が多いし、
大人になってからは何気ない場面で対応差を感じて辛いこともある。
せっかく自分が好きな服を着て、メイクをしていてもそんなことされたら落ち込むはずだ。
だから私は多くの人に言いたい。
容姿とか関係なく、一生懸命自分を磨いている人はみな最高に可愛いしかっこいいのだ。
もし他人に何を言われたとしても気にせず胸を張って生きてほしい。
私にとって、またあなたのことを愛する誰かにとって、あなたは十分光り輝く存在なのだから。