見出し画像

ラジオが産んだ "もっちょり"

~ 森本優 ~

「高知県出身です。」と言うと

「四国当てクイズ」が自動的に始まる。

その次に始まるのが「四国の領土分けクイズ」。

綺麗に四等分されていると思っている方!

されてません!こうです!

そんな四国という島から気づけば北海道に。

現在ラジオの仕事をしています。

このnoteでは、森本優がどのように生きて、

今の"もっちょり"になったのかを記します。


~ もりっち ~

転勤族の家庭でした。

高知で生まれてからも県内を移動したり、

幼稚園の年少、年中は沖縄、

年長になるとまた高知に戻って来ました。

沖縄での記憶はほとんどありませんが、

アメリカからやってきた子供たちと

仲良く遊んでいる写真は沢山あります。

この頃から顔が変わっていません。

1番覚えているのは、

父親と喧嘩をして家出した森本は、

隣の家に逃げ込みました。

たまたまその日が誰かの誕生日。

豪華なお寿司を頂いている時に、

父親が迎えに来て、首根っこ掴まれ、

家まで強制送還されたこと。

北海道でもよく沖縄料理のお店に行きます。

好きです、沖縄。


はっきりと記憶があるのは高知に戻ってから。

小学生の頃は「もりっち」と呼ばれていました。

今でも1番仲が良いのは小学生の頃の友人。

2019年は結婚ラッシュでマイルフィーバー。

(北海道から高知の直行便復活希望...。)

ドッヂボールに夢中だった6年間。

(校内ドッヂボール大会3連覇しました)

これは宇宙初解禁情報ですが、

カードゲームクラブに入ってトランプ三昧。

習い事としては長く続いたのは、

フェンシングと水泳(水球)です。

フェンシングは全国準優勝しました。

が、辞めました。

だからこそバスケットボールに出会えました。

ピアノはセンスが無く挫折。

ドラムは少しだけ叩いてました。


コロコロコミックを毎月の楽しみにし、

友達の家で任天堂64をやるのがご褒美。

初めて買ってもらったのはゲームボーイカラー。

「ポケットモンスター金銀」は名盤。

今でも必ず御三家は「炎タイプ」を選びます。

漫画やアニメ、ゲームが好きなのは、

この頃に遊んだ「記憶」が好きだから。

遊戯王・デュエマでサーチしたり

ベイブレードで改造したりもした。

最近、同世代のアーティストと話をすると、

こういった話で盛り上がれるので、

ちゃんと遊んでいて良かったと思います。


「もりっち」の夢はパイロット。

アニメ「モンタナ・ジョーンズ」の影響で、

いろんな世界に行きたい!と思っていました。

まさかラジオパーソナリティになっているとは

当時の私は思っても無かったでしょうね。

音楽は「これが好き!」というものは無かった。

皆が好きなアーティストを聴いていた。

中でもモーニング娘。、SMAP、

スピッツ、ポルノグラフィティはよく聴いていた。

1つだけ違ったのは「ラジオ」を聴いていた事。

森本家は食事中はテレビ禁止。

でも、ラジオはOKという家庭でした。

Hi-Six FM高知をひたすら聞いていました。

昨年初めてお邪魔させてもらった時、

声だけの存在だった岡本嘉勝さんにお会いでき、

高知県民としてはとても嬉しかったです。

父親から貰った目覚まし兼ラジオ。

部屋に戻ると周波数を合わせて聴いていた。

ただ、聴いていた、それだけ。


転機は突然やってきます。

父親が大好きな

東京スカパラダイスオーケストラ

人生初「ライブ」を体験することになる。

小学校低学年の森本少年は、

ライブハウス「CARAVAN SARY」へ。

勿論、東京スカパラダイスオーケストラ。

父親と2人で行ったものの小学生の私は、

背も低く、遠くからは見えない。

そんな時、周りの方が「坊主!前に行け!」

そんなことを言ってくれたのでしょうか。

気づけば最前列の柵の前に立っていた。

目の前で縦横無尽に繰り広げられた

谷中さんによるバリトンサックスの演奏。

その光景の鮮度は今も失われることなく、

私の脳裏にしっかりと、

そしてくっきりと残っている。

大人を「カッコイイ」と思った。

あの日、全てが変わった。

いや、始まった。


~ もりもと ~

日本の中で「言葉の壁」を感じた13歳。

高知県の小学校を卒業後、愛媛県に引っ越した。

四国という同じ島の中なのに、

語尾が違う、それだけでいじられた。

いじめまではいかないけれど、

「言葉が違う人」

として、学年中から注目を浴びた。

2か月くらいで私も土佐弁から伊予弁になった。

すると「仲間」になれた。

ここまで結構大変だった。

入学当時、165cmあったので、

中学生にしては少しだけ大きい方。

ということもありバスケ部に入部。

同学年は10人以上入ったが、

自分ともう1人以外は皆ミニバス経験者。

朝から晩までひたすら練習しました。

しんどかった。

でも。

それよりも。

何よりも。

楽しかった。

「永遠にできる」と思えたものは、

今でもバスケットボール以外は無い。

...かもしれない。

中学生の頃はライブの思い出は無い。

それくらいバスケの事ばかり考えていた。

その代わり、ラジオは聴いていました。


よく聴いていたのは...

「井坂彰のGreat Noisy Club!」(FM愛媛)

「SCHOOL NINE」(JFN)

「国分太一 Radio Box」(JFN)


特に「SCHOOL NINE」は

サンドウィッチマンさんが大好きだった。

ネタ投稿もしていた。

採用されたことは無かった。

「未来で一緒にラジオをするよ。」

そう言っても自分で自分に笑っちゃう。


そして、私の人生が動き出す。

2005年10月3日

SCHOOL OF LOCK!」が始まった。

ただラジオを流し聞きしていた私が、

「意識して」ラジオを聴くようになった。


理由は3つ。

1:学生向けだと分かりやすかった。

2:自分以外のリスナーを感じた。

3:音楽に想いが添えられていた。


これまで聴いていた番組は良い意味で

不特定多数に向けられていた。

それがSOL!は「学生向け」と分かった。

コンセプトも内容も音楽も。


そして、「掲示板」というサイトを用いること、

リスナーと生電話することで、

自分以外のリスナーの存在をはっきりと感じた。

これまで1人で楽しんでいたものが、

どこかの誰かと一緒に聴いている感覚になった。


後に分かることだが、

「井坂彰のGreat Noisy Club!」のリスナーには、

同じ学校で苦手だった女の子がいた。

同じ番組のリスナーと知った時、

一気に仲良くなった。

苦手だった人と、ラジオで仲良くなれた。

この時に感じたことを、

私の番組のリスナーにも感じてほしい。


そして、何よりもSOL!が好きな理由は音楽。

SOL!で流れる曲には「想い」があった。

添えられる「言葉」

リスナーの「声」

それによって同じ曲も違って聞こえる。

それを教えてくれた。


中学校2年生の時、

SOL!の生電話に同い年の女の子が出ていた。

その子は学校でいじめを受け、

家庭内暴力を受けている子だった。

私は同い年の子が活きている環境を知った。

人はいろんな生き方をせざるを得ない。

その子はラジオでこう言った。

「学校にも家にも居場所はない。

でもラジオだけが、

SCHOOL OF LOCK!だけが居場所です」と。

私は初めて「ラジオがしたい」と思いました。


中学校3年生の時に転校した。

バスケットボール部の皆とは、

最後の試合だけ一緒に出られなかった。

初めて親に反抗した。

「1人暮らしする!」と言った。

母は「ごめんよ」と泣いていた。

悔しかった。

本当に悔しかった。

その時に支えてくれたのは、

ケツメイシBoA でした。

音楽でした。

そして、SOL!(ラジオ)でした。


転校先の人たちは優しかった。

そして人生最大のモテ期をここで経験する。

(転校して良かった←)

でも、浮気された。

中3彼氏が中2彼女に。

シンプルにトラウマ。

(その子は後に大学の後輩にもなる。)

たった1年だけの学校生活でしたが、

今でも連絡をとる友人が出来て良かった。

SOUL'dOUTHOME MADE 家族を良く聴いた。

そして、愛媛県から高知県に戻る。


~ もっちぃ ~

高校は英語科に入った。

ラジオをしたい!と同時に、

パイロットという目標は残っていた。

高校生活のうちに留学プログラムがある。

それだけの為に英語科に入った。

クラス替えの無い3年間。

男子9人に対し、女子は31人。

女の園。

というよりは「男の牢獄」。

牢獄とはいえ高校生活も充実していた。

バスケ部副キャプテンになり、

花火大会は学校から眺めて終わった。

けど、それなりに結果も出せた。


留学先はオーストラリアとイギリス。

学校内でのイチャつき方が凄かった。

ベンチがホットスポットでした。

文化の違いを感じること、

日本の当たり前がそうじゃないこと、

違うことだけじゃなく、

「愛」は同じこと。

いろんなことを体験できた。

ホームステイさせてくれたマックスは元気かな。

海外経験の話はまた別の機会に書きます。


高校生活では数回ライブにも行けた。

特に印象に残っているのは

チャットモンチー と BoA。


チャットモンチーは、

ラジオを聴いているアーティスト。

BoAはずっと好きなアーティスト。

高知県のライブハウス「BAY5 SQUARE」

チャットモンチーが好きな人で溢れていた。

中には喋ったことは無いけれど、

明らかに同じ制服を着ている学生が何人も居た。

その光景を見た時の高揚感。

同じ音楽を好きな人が周りにいる。

それが何よりも嬉しかった。

ラジオで聞いた声だ。

ラジオで聞いた曲だ。

ラジオで聞いたチャットモンチーだ。


学校、習い事、バイト、家。

それだけで過ごしている学生にとって

ライブハウスという空間は特別だった。

それは大人になってもそう。

特に学生は行動範囲が狭い。

見えている世界も広くない。

視野を広げてくれるきっかけがライブだった。


BoAのライブは松山まで行った。

学校終わり。

唯一部活をさぼった日。

親友と二人で行った。

これまで聞いてきた音楽を

生で聴けることに涙が溢れた。

むしろ登場の瞬間で泣いていた。

連れて行ってくれた親に感謝。


高校3年。

気づけば部活も引退し受験生。

毎日予備校に通って勉強した。

進路先に選んだのは「東京」

理由は「アーティストがいる街」だから。

ラジオの街」だから。

当時はradikoは無い。

東京に行っていろんなラジオを聴きたかった。

沢山ライブに行きたかった。

それだけの理由。

だからこその理由。


志望校に何とか合格。

父と運転を交代しながら

高知県から東京まで車で行った。

今考えるとゾッとする。

生きてて良かった。


~ もりもとくん ~

法政大学社会学部メディア社会学科。

バスケも楽しくて少し続けた。

バイトは飲食、テレオペ、清掃、

ライブスタッフ、ラジオ局AD等をした。

単発から長期までいろいろ。

今でもよく会うのはバルの仲間。

「瀬戸内バルCollabo」

「瀬戸内キッチン 五反田店」

是非行ってみてください♪(宣伝)


とにかく貧乏。

バイト代で(今よりも)稼いでいた時、

全てをライブ代につぎ込んでいた。

チケット、グッズ、移動費。

4年間で約200公演。

ようやく会えたケツメイシ。

横浜アリーナで2時間号泣。

人生初武道館はSCANDAL。

同世代の誇り。

back number初武道館も行った。

気づけば少女時代にドはまりし

ツアーを5公演くらい行った時もある。

今でもユナさんは殿堂入りです。


元々好きだったハロプロの現場にも行った。

AKB48の握手会にも参加した。

当時の最先端。流行る音楽の現場。

刺激は沢山受けた。

今でもアイドルをリスペクトしています。

職業として捉えた時、

本来の「推す」を理解できました。

それは今の番組にも繋がっています。


そこからK-POPと洋楽にはまった。

昔から聴いていたMaroon 5、AVRIL LAVIGNE、

Bruno Mars、Alexandra Stan...。

国内だけでも嬉しいのに、

海外の方のライブも見られる街。

東京に来ないと「生で」聴くこと、

体験することができなかった。

「音楽を体験した4年間」でした。


同時にラジオの幅も広がった。

興奮した。

放送局の数、番組の数、喋り手の数。

自分の知っているラジオとは

全く違う世界のラジオが広がっていた。

本当にいろんな番組を聴きました。


TBSラジオ「JUNK」

「小島慶子 キラキラ」

「赤江珠緒たまむすび」

ニッポン放送「ミューコミプラス」

「オールナイトニッポン」

bayFM「KEIYOGINKO POWER COUNTDOWN JAPAN HOT 30」

NACK5「FUNKY FRIDAY」


J-WAVEとFM TOKYOは挙げるときりがない。

HELLO WORLDは短い期間でしたが

ADも担当させて頂き本当に勉強になりました。

「BGM」の大切さ。


当時スペイン坂スタジオで公開生放送だった

TOKYO FM「Skyrocket Company」

そこに通い詰めたことで夢のような事が起きた。

あえて書きませんが、

今でも番組を聴いているのは

とにかくラジオの距離感は特別だと感じたから。


そんなこんなで(笑)

いや、だってもう5000字超えちゃったもん。

読んで下さっている方、

ありがとうございます。


ってことで、就活です。

ラジオ局しか受けないって決めていました。

「アナウンサー」になりたいという理由で、

日本全国のテレビ、ラジオを受けている人、

今でもたくさんいます。

テレビを思い描いてラジオに来てしまい、

気づいたら離れている人も少なくない。


はっきり言います。

ラジオのアナウンサーは

テレビのアナウンサーとは別物です。

地方局になると尚更です。


私は都市のラジオ局と決めていました。

それは自分が高知県出身だからです。

音楽がより溢れている街に行きたい。

それだけの理由で4社しか受けませんでした。

ただのエゴです。

でも、だからこそ、今言えること。


北海道は恵まれている。

スポーツもライブも「環境」がある。

地元で生で体験できる場所がある。

贅沢。

それを良い意味で伝えていきたい。


入社試験。

先述した通りのことを売りにしました。

容姿でも活舌でも知識でもなく、

ただ「ライブに行く」人、

ひたすら「ラジオが好き」な人。

好きな他局の番組、

好きなアーティストの話をひたすらしました。

それで受かりました。

今、なんとかラジオで生きています。


~ もっちょり ~

2014年に北海道に来ました。

予想外。

でも、想定内。

ラジオがしたかったから来ました。

AIR-G' FM北海道に入社して天気とニュース。

そこからHello HOKKS!という番組を担当。

テーマは「北海道再発見」。

北海道初心者だからこそありがたかった。

自分で取材に出向き、編集しました。

今でも出会った方にお世話になっています。


そしてLEVANGA STATION

地元プロバスケットボールチーム、

レバンガ北海道の魅力を伝える番組です。

バスケットボール部だったからこそ、

ラジオから魅力を伝えたかった。

バスケだけの30分で6年続いているのは

LEVANGA STATIONだけ??

なのではないでしょうか?

改めて関係者の皆様に感謝します。

いつかレバステプレゼンツのホームゲームを!


その後Sparkle Sparklerという

いわゆる昼生ワイド番組内の中継を1年半担当。

この時に「5分でまとめる」ことの難しさ、

「捨てる勇気」を学びました。


2017年4月から「IMAREAL」がスタート。

この番組に関しては改めて書きたいと思います。

とにかくラジオや音楽を知ってもらう、

その為のきっかけになる番組にする。

ありがたいことに4年目。

沢山の方に知ってもらえるようになりました。

その中で

番組開始当初に出演してくれたBIGMAMA

金井政人(vocal/guitar)さんがつけてくれたのが


「もっちょり」


森本稀哲さんのお名前を略して...です。

いつか御礼を直接伝えたいです。

最初は広まるかどうか...と思っていましたが

今ではラジオの「もっちょり」になれました。

リスナーの皆さんありがとうございます。


今、ここで言えることは

変わらず、今の時代にあった方法で

音楽に言葉と想いを添えて届けます。

ということです。


個人的には2019年、

自社番組以外に出演できたことは

番組作りへの自信にも繋がりました。


TOKYO FM「SCHOOL OF LOCK!」

NHK・民放ラジオ特別番組

『今日は一日“民放ラジオ番組”三昧~#このラジオがヤバい~』

TOKYO FM「木村拓哉 Flow supported by GYAO!」

SBSラジオ「第3回ラジオナイトサミット」

広島FM「大窪シゲキの9ジラジ」

関係者の皆様、改めてありがとうございました。


~ 未だ無い名前 ~

radikoの普及により、

ラジオは

ラジオで知ってもらえるようになりました。

日本全国「知ってほしい」と、

伝えている人や番組は知って貰えています。

次はラジオの外です。

ラジオの話題になると決まって、

アーティストや

タレントの方の名前が挙がります。

それはしょうがない。

だって面白い。

youtuberがラジオをやる。

それもしょうがない。

実際、ラジオを聴くきっかけを

作ってくださっている。

それに面白い。

だけど「ラジオ」の未来を考えるのであれば

純粋なラジオスターも産むべき。

産むというか作る必要がある。


業界全体で「ラジオパーソナリティ」という

職業を「本職」としたスターを作らねば。

と、思っているが半分諦めています。

逆にいうと。

半分、諦めていない。


もう1つ。

ライブハウス、ホール、アリーナ、ドーム。

音が溢れる場所に行く度に、

ここにいる何人がラジオを聴いてくれているか。

そればかり考えます。

好きな音楽をもっと好きになれる、

まだ知らない曲を知るきっかけになる。

それがラジオ。

フェスの動員は増えている。

音楽が好きな人は多いのに、

ラジオまでは聞かない。

聴いてもらうにはどうするか。

魅力的な番組、

想いを載せるパーソナリティ。

その存在を知ってもらうしかない。

ラジオとライブ会場を繋ぐ役割になりたい。


私の「ラジオ」は変わらない。

音楽に声と言葉を添えて届ける。

ラジオを知らない人に知ってもらう。

それだけです。

これが私のプロフィール。

ラジオが産んだ"もっちょり"

これからどうなるか楽しみです。


長文読んでくれたあなたに。

出会ってくれてありがとうございます。

またラジオで会いましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?