生存することは「差」をつけること。どこに差を求め、求めないのか

 一人一人、千差万別な能力、身体的な特徴がある。私とあなたは、違う。できることも、考え方も。そんな私やあなたは、唯一の存在であるとともに、社会の一員である。
 社会の一員になるためには、学校でルールを学び、基礎的な素養と体力をつけ(つけさせられ)、社会に送られる。社会では競争、ノルマ、効率で全速力で走らされ、走りきれるものもいれば、ドロップアウトしていくものもいる。
 人はどんどん差を意識する、より能力をあげ、金を稼ぎ、時間も効率化する術を身につけて、一歩でも前に進もうとする。人が学び続けたいという欲求は、際限がないように見えるし、人とは違うと認められたい欲求も、これまた際限がないように見える。

 一方、そのような競争に、参加しない、またはできない人がいる。カテゴリーとしては、生産性が低くて、助けを必要とする人たち、病気、けが、先天的なあるいは後天的な障害かある人たちは、果たしてこの社会でどう振る舞うのか。記事のように、助けを求めること、優しくされることを前提に、対等ではない関係を保ち続けるならば、それができない人は、この社会には生きていけないのだろうか。

「生きていること」に対し、健常者と障がい者には区別はないが、できることも助けの頻度も大きく異なる。多様性なる言葉があるが、仮に障がい者のかたの立場で考えること、視点、価値観をマッチさせる共感能力を試されている。

差を「是」としてきた健常者グループに、差を「否」とすることが、果たしてできるのだろうか。もしできるとするならば、やはり障がい者に一番近い存在、例えば親だったり兄弟だったりが、よき理解者となり、社会のなかで変革を起こす必要があるだろう。

 差を求める社会で、差別をどうなくすかなんて、矛盾である。社会主義にでもなれってのか?いや、もっと均一化された社会を求められる。

資本主義の中で生まれた自由と人権、平等、このもって生まれた差を、どう活かすのかは、身近な健常者がいかに振る舞うかにかかっている。勉強しよう、そして居場所を探すんだ。


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