生きること死ぬこと
わたしは病気のせいで、何度か死のうとしたことがあって今でもパニックに陥ったら死にそうな気分になるので、よく生きることと死ぬことについて考える。(毎日かもしれない)
昨日、5歳の甥っ子がふとテレビの中の人になりたい、と言った。そのときは幼児向けのテレビ雑誌を読んでいたので、その影響なのかもしれなかった。
なぜなのか尋ねてみると、この世にいなくなっても、テレビの中だとずっといることができるでしょ、のことだった。
なかなか深いこと言うなあと思った。テレビの中にいれば、永遠になるということなのか。子どもの純粋な死への恐怖と生への執着を感じさせられた。
死への恐怖。おそらく多くの人が感じたことがあるだろう。先日、91歳になる祖父が死んだらあかん、終わりだ、生きるのが大事だ、と豪語していた。平均寿命を超えて生きてもなお抱く人の死への恐怖、生への執着。
この間、歎異抄の解説版みたいな本を読んだ。そこでも死への恐怖の病を人間の根源的な苦しみとして捉えていた。
確かに、私自身も子どもの頃テレビで見た震災の被害に恐れ慄き、高校生くらいになると寝る前に死について考えて死にたくないと強く願った。
わたしはいわゆる震災被害に実際にあったりだとか、事件に巻き込まれただとか、身近な人の死とか、大きなトラウマはない。
それなのに、なぜ死にたくなるほどになってしまったのか。
最近、スピリチュアルケアについての本も読み進めている。
そこで出会ったドゥッカ(仏教でいう苦しみ)という概念に凄く腑が落ちた。
ぼんやりとしか覚えてないんだけど、ドゥッカを日々の小さな不快感という解釈をすることだった。なにも大きなトラウマだけではない、と。
日常の小さな不快感の積み重ね。感情の抑圧。パソコン作業による思考ばかりで身体感覚の喪失。
実はそう言った身体やこころが出していたメッセージを無視し続けていた生活。それはもはや生活なんだろうか、生きていることなんだろうか。
そういえば、毎日感じていた自身を殺しているような感覚。それはもう死んだようなものなのじゃないだろうか…
先日、私がとても参考にさせてもらっていた慢性疲労症候群の方のブログが見れなくなってしまった。
いつも空が見えるから、というタイトルのブログで、膨大な参考資料と緻密な分析力で病気を抱えながらもあれだけ客観性を踏まえたブログを書かれていたことに凄く尊敬の念を抱いていた。
ソマティックエクスペリエンスのことなど参考にさせてもらったりで、一時は死ぬことしか考えられない状況だったなかで唯一解決法を提示してくれた、すごく支えにしていたブログだった。
筆者のyukiさんには本当に感謝の言葉を伝えたくて仕方がない。方法がないのがとても残念。
…話が脱線ばかりする。
彼女のブログで学んだことはたくさんあるけど、身体感覚などを通して今を生きているということを実感する大切さを特に教えられた気がする。
世間体のため?お金のため?
ついつい無視しがちな感情のうごきや身体感覚。私だけではないはず…
みんな推し活やネットの情報氾濫に逃げているだけに思える。私もそうだったから。
わたしは結局のところどうしたいの?と問うても正直わからない。わからないはわからないままでもいい。
ただもう自己犠牲はしたくない。自分を大切にしたい。
それが今を生きるということではないんかな。
まとまってもないけど、いいや。頭に浮かんでたことをとりあえず文字にしてみる。今はそれで良い。
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