大濠ヒストリー【ラストイヤー①】

1、最終学年

個人として不甲斐なかった1年目、チームとして不甲斐なかった2年目を経て、新チームのキャプテンとして気持ちを新たにスタートした3年目。

僕たちはチームとしての成長と成熟を何度も話し合い、方向性を確認しながら自分たちが目指すバスケットボール、そして大濠の伝統をもう一度継承するキッカケを追求し続けました。

2、大怪我、手術、入院

新チームの力試し的立ち位置にあたる全九州大会新人戦(2月)で僕たちは3位という結果で終えました。もちろん満足のいく結果では無かったですが、自分たちの課題も明確になり、さらに練習に励むようになりました。

さあ、これから・・・!

バスケットの神様って、結構残酷なものですね。

ある日の練習(たしか3月中下旬くらいだったと記憶しています)。僕は、オールコート4on4のディフェンス。マークマンが左45°からミドルラインにペネトレイト。左足で蹴り出し、右にステップを切ろうとした時に、嫌な音と激痛。あまりの痛みにその場から動けませんでした。

診断結果は...

『右膝半月板の損傷』

手術と入院が伴う大怪我を負ってしまいました。
出鼻を挫かれるとは、まさにこのことですね。
物事はなかなかうまくいきません・・。

【小話】
けがをした瞬間あまりの痛みに動けないでいる僕に、
田中國明先生は、こう言います。

「自宅生にチャリば借りて整形外科(チャリで20分)に行ってこい!!」

「(何言ってんの・・・( ;∀;)?)」って感じでしたね。

僕は基本的に口答えはしないタイプですが、このときばかりはさすがに。。

「先生、無理です!チャリなんか漕げません!!」

結果的に田中先生にクルマで連れて行ってもらいました・・笑
ほんと、どこまでも豪快なおじいさんですよね・・笑

その後、診察結果を言い渡され、車椅子に乗った僕を見た田中先生は、

「たしかにそれは漕げんねっ!ハハッ!」


って笑ってました・・。

3、新キャプテン不在のチーム

それから僕は、すぐに手術をし、入院・リハビリ生活に突入するわけですが、4月に新入生がチームに合流するタイミングには間に合わず、その日を病室で迎えました。

この時は「とにかく早くコートに戻らないと!」という焦燥感があり、治療は比較的時間がかかる完治を目指す手法ではなく、継続的な治療を前提とした比較的復帰までが早い手法をドクターにお願いしました。

とにかくこの一年で結果を残したかったのです。
というか、僕にはもう、残す以外の道が無かったわけです。
(この時ばかりは、目的と手段の混同っぷりは凄まじかったと思います...)

どのくらいの期間だろうか・・
3,4週間くらい経ってだいぶ回復してきたので退院許可が下りました。

私は、つくづく人に恵まれていると思っています。
その入院期間も毎日大勢のチームメイトがお見舞いに来てくれ、私の大好きなバームクーヘンと牛乳を差し入れしてくれました。トレーナーは、多忙を極める中リハビリに毎日付き合ってくれ、体のケアを献身的にしてくれました。キャプテン就任直後に怪我をしてしまうような空回りキャプテンを支えてくれた皆さんには感謝しか無いです。

こうして考えてみると、神様が焦る僕に「少し冷静に周りを見なさい。自分だけじゃないでしょ?チームでしょ?」と。

冷静になるキッカケを僕に与えてくれたんじゃないかと、思っています。

僕がこの2年間悔しい思いをしたように、チームメイトそれぞれに悔しい思いがあり、それぞれが胸に誓う志があり、それを束ねて目標達成に向けた推進をするのがリーダー(キャプテン)なんだ、と。

1,2年生の時に自分の事ばかり考え、好き勝手にバスケットボールが出来ていたのは、3年生が下級生の事を考え、チームを包み、支えてくれていたからということに気付きました。

ここで思い出しました。

新チーム発足当初、チームメイトにパスを供給せずに自分が攻めることだけを考えていた僕を片峯先生は強く叱りました。「周りを見ろ!チームメイトを信頼しろ!そういうチームを作れ!」と。

キャプテンはリーダーとしてチームを導く役目であり、如何なる場面でも"自分"が主語になることは無いんだ』ということを学びました。

この時になって、片峯先生の言葉の真意が理解でき、自分の中でチームのために尽くすことを誓った瞬間です。

4、チームに合流。そして改革に乗り出す

退院後、チームに合流した僕は、プレーに復帰するまでの間、チームを分析することに注力しました。コートサイドに机と椅子を置かせてもらい、チームメイトを徹底的に分析しました。

『何が得意なのか、何が苦手なのか、何を考えているのか、どんなときにどんな表情をするのか、あらゆる情報をメモに書き出し、それをチームやチームメイトにフィードバックする。』

これを繰り返しました。

いま思い返すと、この取り組みによって僕は誰とコートに立っても、彼らの特性や気持ちを理解し、最適なプレーを遂行する自信ができましたし、コートに立ち、ボールを交わさなくてもなくても、信頼関係を築き上げることができていたと自負しています。

さらに、この年は抜本的なチーム改革を行うことを目的に、片峯先生と3年生であらゆる大濠の伝統や文化、慣習を見直すことに着手しました。チーム・個人としての成長の妨げになるような伝統や文化、慣習を無くし、勝利を追い求める集団としてふさわしい、健全な組織づくりのためです。

色々なことに手を加えましたが、代表的なものは「バディ制度」だと思います。これまでの「舎弟制度」に変わる取り組みです。バディとは、映画「海猿」のプールでの訓練シーンでお馴染みのパートナー制度ですね。双方の向上及び規律を互いに高い水準で実現し続けるためのものです。

ちなみに僕のバディは当時1年生の青木保憲(川崎ブレイブサンダース)です。相部屋では無かったですが、寮での生活と言う点でも同じだったので、いろいろと生活を共にしました。愚直で真面目、向上心溢れる頼もしい後輩でした。人を自分のベッドにあげたくない性だった僕のベッドに無断であがり、放屁したチームメイトは後にも先にも彼だけです・・。

5、復帰

膝の調子も良くなり、プレーにも復帰したわけですが、前述の通り完治しているわけでは無いので、膝に溜まる水を月に1回のペースで60cc程度(多い時で100cc)抜きながら、プレーを続けていました。3年時の僕は膝をガッチガチにテーピングして、その上にサポーターをしていたと思います。

その時のスタメンが3年生2人(僕と村越)+1年生3人(青木杉浦葛原)という布陣でした。経験豊富な上級生でスタメンを構成できる方がプレーが比較的に安定するスポーツにおいて、半数以上を1年生で構成するというのは、かなりアグレッシブでチャレンジングだったと思います。しかし、バックアップに同期と2年生がしっかり構えてくれていたので、1年生が持つフレッシュさと上級生が持つ経験値を武器に、新生「大濠」としての道を歩み始めたわけです。

6、着実な手応え


県予選を順調に勝ち上がり手にした秋田インターハイの出場権。強豪だらけのブロックに入ってましたね。このインターハイは結構記憶に残っていて、

・初戦:湘南工科大附(神奈川県代表)
・2回戦:田渡凌池田慶次郎率いる京北(東京)
・3回戦:笠井康平渡邊雄太(!)率いる尽誠学園(香川)

どこもかしこも強敵だらけですが、各チームに合わせた戦略がどんぴしゃで功を奏し突破、ベスト8入りを果たします。

・準々決勝:レオバンバ飛竜・黒木亮(大学同期!)率いる延岡学園(宮崎)に敗北

NBA メンフィスグリズリーズで活躍中の渡邊雄太くん率いる尽誠学園との試合映像がyoutubeに上がってますので、お時間ある方はチェックしてみてください。


秋田インターハイは全てが満足のいく結果では無かったですが、ベスト8進出を果たし、復活の狼煙を上げるに至ったと思っています。

その要因には、怪我をしたからこそ気付くことができたチームメイトの存在が言うまでも無く大きかったです。

「ピンチはチャンス」と良く言われるものですが、苦しい時こそほど一度立ち止まって顔を上げて周りを見てみる、僕たちの周りにはたくさんの仲間がいます。その仲間は、自らを突き動かすエンジンになります。

逆境に置かれたときだからこそ、気付けるコトがきっとこの世の中にはたくさん存在していて、それに気付けたとき、今まで出会ったことのない自分と景色に出会うことが出来るのだと学びました。

7、次回予告

ちょっと長くなったので2つ分けます。

次回は、
 ・ウィンターカップまでの道のり
 ・引退
 ・大濠高校に進学して学んだこと
あたりを書いて、このコラムを締めます!


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