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福元、バスケ辞めるってよ【"田中國明"】

1、実は、二回バスケットボールを辞めている

これ、知ってる人は知っているだろうけど、『謎に包まれた空白の期間』として認識している人の方が多い気もします。

そう、実はぼく、バスケットボールを2回辞めています!

やめた経緯はもちろんのこと、それだけでは面白く無いと思うので、その経験から何を学んだかを書いていこうと思います。

2、一度目の引退

これは前の記事を読んでみてください。
人にはほとんど語らずにきた部分を書いてます。

3、二度目の引退

二度目の引退は、大学4年生の時です。
大学バスケを最後にして僕はバスケットボールから引退しました。
(いまもひそひそと趣味程度に続けてはいますが・・)

この引退、実は高校3年生の時には既に心に決めていました!

これは、もう少し後の記事くらいで書こうと思います。今回書きたいのは、前の記事でバスケを引退したと書きましたが、引退してから大濠に進学するまでの約半年間について。この半年間のエピソードは恐らく誰にも話してないです。。!

4、勢いよく辞めたものの虚無感・・・

「わかった、辞める」と言ったは良いものの、いざ辞めてみるとめちゃくちゃ暇だし、結構不安になるものです。だって、それまでの生活の大部分を注ぎ込んでいた時間がゴッソリ抜け落ちるから。学校の授業が夕方に終わって、体育館の前を通って自宅に帰る。なんなら、練習に来るコーチとすれ違っちゃったりしながら・・笑。

シチュエーションが香ばしすぎる...笑

それからというもの、バスケには一切目をくれず受験勉強に励んでました。夏休みは担任の先生にお願いして、毎日午前中は付きっきりで勉強を教えてもらったり、塾に通い始めたり、大分舞鶴高校の入試問題を解いたり...。

この後かかってくる、突然の電話が無ければ、ぼくは恐らく大分舞鶴高校を受験してました!(笑)

5、突然の電話

そんな平凡な毎日を送りながら、体重が徐々に増え始め出した頃に、今はお亡くなりになってしまいましたが、福岡大学附属大濠高校の田中國明先生から電話がかかってきたわけです。「え、まさか・・!!」と思いました。確かに大濠に進学したいと思っていましたが、こんな顛末なので無理だと諦めてました。

※田中國明先生について知りたい方はこの書籍をどうぞ。基本的にゲンコツです・・・。

人生って何が起こるかわからないものですね、一連の出来事を知った田中先生が電話をかけてきてくれ、「一度話を聞かせろ」ということになったわけです。本当にドラマみたいな展開ですよね。

後日、食事をすることになったのですが、それが別府市内にある「トンボ」というお店。田中先生はわざわざ別府まで来てくれたんです。
※「トンボ」は残念ながら閉業してしまいました。。

6、この人についていこう

そこで、田中先生と母と僕で食事をしながら沢山話をしました。目の前には、夢にまで見た”あの田中國明”ですからね、めちゃくちゃ緊張しました。そんなことを知る由もない田中先生は、開口一番、

「何があったか全部言え!」

根拠は無いけど、「あ、この人なら全部言って良いかも」と思いましたね。そこで、どういう経緯か、何を考えて辞めたか、この先どうしようと思っているか、全部言いました。全部。

そうすると田中先生は、

「全部わかった!うちに来い!」

その場で、大分県バスケットボール協会の偉い方に先生は電話をして、仁義を切ってくれ、「これで大丈夫!」と言うわけです。もう、訳わからん。その時何食べたか覚えていないです。笑

そして、さらに田中先生は言うわけです。

田「で、大学はどこに行きたいと?」

福「憧れの大濠でまたバスケができるので今は考えてないです・・。」

田「アホか!!それが目的になってどうする!?早慶のどっちかが良いぞ」

福「(なんとなく)慶應ですかね・・・?」

田「わかった!」
田「(電話し始める)『中3に福元っていうのがおるったい、3年後に受験するけんね、よろしくね!あ、落としたら殺すばい!』」

福「(え、受けるの?殺す・・?この人さん、ヤバイじゃん)」

田「よし、OK!3年間しっかり勉強しろ!」

だいたいこんな感じでまさに嵐のような会談でしたね。この1、2時間で僕はまたバスケ界に戻れることになったわけです。

理由もなければ根拠もないけどもこの人に付いていくことを決心するしか無いと感じ、全てを託すことにしました。

計算云々ではなく、一生懸命頑張っていればチャンスは転がってくるものだし、無理矢理にでも信じ抜くものを作るって、とても大事だな、と。何やっても上手くいかないときってあると思うんです。でも、もうその局面で何かできることって実は無くて、今までの経験や感覚、思考を信じて、やってみるしかないんですよね。その”信じることが出来るモノやコト”を創り出すために日々の生活や努力があるんだと思いました。

7、単身福岡へ

それからどのくらい経ってだろうか・・?

僕は大分県に家族を置いて、福岡県福岡市に一人で引っ越し、中学校卒業まで一人暮らしをすることにしました。





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