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第8話 ✴︎ 「大人になるということ」By根津イーディ✴︎

たとえば最初に「浴室に何か緑でも置くと良いよ」と言われて、色々調べた結果、浴室というか洗面所のあたりに置く緑はナンテンが良いだろうと思ってナンテンを置いたりしていても、オリーヴの木を見つけた花屋さんが「ナンテンは外に出してあげて。みんな風水の観点から室内に入れるけど、ナンテンは外がいい子だから」と言われると、迷いもなくその翌日から玄関の外に出す。つまり今のわたしはそういう風な優先順位で生きている。

(前はそうではなかった)のだけど、人生はSomething Happen Change Somethinだし、もう戻れない昔のわたしを取り出してきて(前はそうでなかった)と考えてもあまり意味はない。いや、意味はある。自分という人間の激変というものは実際じぶんが一番驚くものだし、あれれれということであれば、そうでなかった時の自分を取り出して眺めることには「咀嚼」と「消化」という意味での意味がある、でもそれは前に進んでいき時を流していく日々にとってはあまり建設的ではない。

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店にオリーヴを買って、翌日ナンテンを外に出した時に、わたしはひどくそう思ったのだ。ああ、わたしって今こういう人になったのだ。と。

それが「大人」の振る舞いなのかなんなのか、そういうカテゴリはわからないけれど、わたしは「じぶんが後回しな人」になったのだ。というか「”じぶん”とかは後からじぶんでどうにかできる人」に。おそらく周りからは「自分強めの人」に見えていると思うから人にはそれが伝わりにくいかもしれないけど、わたしは今「じぶん」はそんなにどうでもいい。それは2015年アラビヤ以降ずっとそうで、しかし同時にわたしは「後回しにできない大事なこと」を自分のこと以外にたくさん抱えていてそれに関して一歩も引かないし、ずんずん進めていくし、女主人としての自分がお店にとって重要だと冷静に判断してるから中島桃果子自体をすごく推してるからおそらく外からはそう見える。自分強めの自分好きに。でも実は違うんだな。


たとえばナンテンは「わたしの調子を整える」ための目的で我が家にやってきて、昨年2回も入院をしたわたしにとって風水的に家の中で弱い箇所ーー浴室まわり。夏に乗ったタクシーの運転手さんがやたらと君は浴室に植物を置きなさい、そうすると体調よくなるからと言ったからその通りにしたーーに配置された、にも関わらず、わたしは現在じぶんの調子よりもナンテンの健康を重んじて、ナンテンを即座に家の外に出してしまっている。そう言う感じが今のわたし。

あれじゃあわたしの健康って風水的にどうなるのよ、ってことだけど、ナンテンと出会ったその時から、ナンテンはわたしと「関わり」をもち、わたしにとってわたしをよくするためのツールではなくなってしまっているので「まあわたしのことはわたしがなんとかできるでしょ」って思って、それより「弱ってしまってるナンテン」の健康の方が即座に優先案件になる。
わたしは多分今、一事が万事そんな感じ。
同時にこれは自己犠牲的なものではなくって、
「わたしのことはわたしでなんとかできる」ってことを、
強く信じられるようになったってことでもある。前は不安があった。だから弱ってるナンテンでもわたしの浴室に置いて置かないと、自分が「なんとかならない」のではないかと思っていた気がするのだ、つまり自分と関わるものには自分がよくなるように何かしてほしいと求める気持ち。あと自分を自分でちゃんと正しく評価できてないから、エゴとか卑屈さとかが場合によってぬっと出ちゃって、例えばナンテンに対しても「そんな弱られたらわたしが悪いみたいじゃない」と言う考えになったり。その時点でナンテンの健康状態は二の次になってる状態。昔の自分は今の自分ではないので思い出しにくいけど。

今は違う。わたしは多分、大丈夫。だから例えば、イーディ🦜はたくさんの個性と才能溢れる人たちに支えられているけれど、その人たちが個性を発揮すればするほど「わたし」が薄れ、お店からわたしらしさがなくなるのではないかみたいな、そういうアイデンティティにまつわる悩みはもう本当にない。
この「多分大丈夫」というものに、本当に「実績」がついてきてしまった、この数ヶ月で。あんなことや、こんなことを、乗り越えてしまってなお、陽気にやっているから。

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この1年、特に1月、5月、6月から9月に起きたことっていうのは、あまりにたけ続けであったし、あまりにも息が止まるような、仰天する出来事の連続で「傷つく」とか「落ち込む」とかよりも「驚く」ということの連続で、それに対しての自分の感情のフィードバックがうまく取れないまま、次の「驚き」さらに「驚き」という感じで、人生に激変がもたらされすぎたような10ケ月だった。そして11ケ月めの今、ということになるのだけれど。

先日ミヤコちゃんという常連さんが、わたしが休みに電子レンジの配置をしていたら「モカコさん大丈夫!?心配で気になって!」とドンドン、と扉を叩いてやってきた。最近の「驚き」案件にミヤコちゃんは少し関係があったので、気にしてくれているらしかった。彼女はデザイナーだけど言葉を選ぶのがとても上手な人で「わたしは桃果子さんを賢い大人の女性だと思っているけれど、どんな人になって脆弱な少女性ってあると思うから」ってメールをくれていた。確かに。確かにそうよ。
そうなのだ脆弱な少女性はきっとわたしの中もあって、
わたしは無敵艦隊女子ではない。
だからここでナンテンに話が戻るのだけど、最終的に即座にナンテンを外に出すタフさあるならナンテンなんてあなたに必要ないでしょ、ということでいうとそうじゃないんだよな。やっぱりその時は「ナンテンがあったらわたしの人生はもっと彩り豊かになるな」って思っているわけだし、浴室に置いて嬉しいわけよ。
それにわたし、受け止めて前進していくタフさは磨いて行きたいけど、いろんなことを「まあこんなものよね」って飼い慣らしてわかった風に消化していく大人にはなりたくないの。

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だからそういう意味ではわたしは毎回フレッシュに傷つきたい。
毎回驚いていたいのです。
前回東から嵐来て地面に叩きつけられてましたよね〜ってなっても、
西側は東じゃないしってことで、また薄着で綺麗なハイヒールでも履いて、ウキウキと出かけて行きたい。西からも嵐くるかもよって鎧だらけになって視界もよく見えないままおそるおそる出かけるみたいな人でいたくないのです。そういう状態の時は家にいればいいと思うから。「出かける」ということを決めたが最後、薄手のカーディガンで行きなさいよ、って、感じなのだよな。それでまた西からも嵐がきて今度は大気圏まで吹き飛ばされたとしても、また南を向いて元気に出かけて行きたい気がする。だってわたし2度の嵐に持ちこたえたしね!って、そのコアは外側じゃなくて内側に持っていれば、次の嵐の時にはその嵐を利用してトリプルアクセルみたいなものを華麗に舞えるのではないかしら。笑。

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なんかおとといから無性に何かを書きたいと思っていて、こんな土曜の夕暮れ時に、もう店行く支度しなきゃなと思いながら、今書かないと何かがこの手をすり抜けて行きそうって思って今は今しかないから、その今をこのWEB上の白い紙にピンしてアーカイヴする。

何か。それは何度嵐になぎたおされてもわたしは嬉しいということ。

なぜならわたしはわたしの身に起きたことを誰のせいにもしていないから。

人のせいにしない。って、小さい頃に最初に習うけど、それって結構大きなミッションであって、それを遂行するのはたやすくないし、実際1月にも5月にも、6月にも、わたしよりずっと「大人」なはずの人が、そうやって自身と向き合うことから逃げた様を目の前でみた。その人たちが身をかわしたからその後ろに立っていたわたしは、胸から下半身を切り裂かれた。
でもわたしは思ったよ。「確かに後ろに立っていたもんな、自分んで望んで」って。だから厳しかったしきつかったけど、向き合って乗り越えようと思えた。

起きた出来事は、それに関わった様々人の視点と解釈と語られる言葉でアーカイヴされていく。誰かは誰かを好きだったと言うし、誰かは最初から好きでもなかったと言うし、誰かは最初からこのことを相手は了承していたと言うし誰かはそんなの了承していないと言う。そんなこと言ったけ?という人がいて、あの言葉を自分はこう言う意味で捉えたのであって、そう言う意味ではなかったよって言う人がいる。その全部が、わたしはきっと、本当なのだろうと思う。だって目から虹彩を通して入ってくる景色は全部本当はただの光で、音も空気が震えているだけのものだから、
だとしたらそれらそこはかとないものに縁取りを与えるのはそれに携わった人の感情と、気配。だからきっと同じものは存在しないんだよね。

それは当然わたしもそうなのだと思うけど、でもわたしが一つ誇れることがあるとするなら、わたしはこの1年、何か大きな事件が起こるたびにその「すきま」をちゃんと見た。
わたしが感じたことと相手が見た世界の乖離。その隙間は本当は覗くのが恐ろしい世界の溝であってブラックホールである。そこにのみこまれたらもう、戻って来ないかもしれない。でもそれを見ないと「じぶん」というものもわからないし、じぶんがどこへ行きたいのかもわからない。

でも何度もその「すきま」をエイって思い切ってのぞいて、事実や真実をじぶんなりに整理して行くごとにーーたぶんこの作業を人は”じしんを見つめる”とか”向き合う”というのだと思うけどーーこの作業こそがわたしの未来の糧になるのだと気づいてきた。あのときちゃんと「すきま」をみたもん。それをちゃんと受け止めて血肉にして、それで今、アクションしている。
だからわたしのアクションはその場しのぎじゃないし、踊らされてないし、流されたりするはずなど、まずまずない。
あんな恐ろしいブラックホールの溝の一度底を触ってそこからよじ登ってきたのだ、安易に流されたり、しないよね。笑。

2と2を足してるんだから4でしょ、という何かが、起きた出来事が時に流され多様な解釈で染め上げられて行くとしても、わたしの中にある色を決めている。あの出来事は誰がなんと言おうとピンク、これは青、これはみんな緑って言ってるけど実はオレンジ。そんな風に。

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客観性って簡単に言うけど、2と2で4とか言ってたら突然×0(ぜろ)みたいな予想外の展開が人生を待ち受けていたりして運命は難しい。

だからこそわたしはナンテンを買う、みたいな矛盾があっていいと思う。
最終的にはナンテンのための自分の動きになるとしても、それでもでも自分の希望のためにまずはナンテンを買うという矛盾。西を向いてスカート翻して出かけていく矛盾。まだ首に包帯を巻いていたとしても。

だってそうじゃないと人生なんか「だいたいわかった」みたいな感じにならないか。それでいて「何もわかっていない」人生に、ならないか。笑。

大人になるってことがどういうことかはわからないけど、
わたしはとにかく、じぶんよりナンテンの健康が大事な女主人になりました。それでいていつも「きぼう」と「ひかり」を求めて、わかりやすく落ち込んだり、わかりやすく泣いたり、わかりやすく浮かれたり、会いたいと言ったり、嬉しいと言ったり、していきたい。
それは間違ってる、と断固として怒ったり、そう言うのは悲しいと嘆いたり、でもそれでも「関わってる」んだからねと全てを抱きしめて、
生きていきたい。

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全部を抱きしめて生きていく。
言葉ほど簡単なことじゃないことももうよくわかっている。

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