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都市と時代はどんどんツルツルになってるな。

この記事を読みました。

たしかに、最近は「死」の臭いは少なくなったな、と、ふと思った。
道に犬やたぬきの死骸は落ちてないし、霊柩車も地味な存在になっている。
都会や時代が「死」や「汚れ」をどんどん視線から消していくものだとよく言われるが、自分の小さいころ(=つまり昭和)に比べてどれくらい消えたかをぼんやり考えてみると、ちょっとビックリするくらい消えてることに気づく。

強烈な死のイメージで私が最初に思い出すのが日航ジャンボ機の墜落事故(1985年)だ。
記憶がねじ曲がっているかもしれないが、テレビは延々と乗客名簿を読み上げ、画面の下から上に、その名前がスクロールしていく。もちろん、まだ”死亡”が確定したわけでないけど、同時に流れてきた事故現場の映像をあわせて見ると、このリストから強烈に死の臭いが漂っていたことが思い出さされる。

ほかにも、焦げ跡が生々しいホテルニュージャパンを背景に社長が拡声器でメディアに声をかけている映像、カメラの目の前で人が刺殺された豊田商事事件の映像など、上の書籍にも出てくるけど、たくさんの「死」のイメージがメディアで流れていた気がする。

私も1973年生まれ。田舎育ちで、ばあちゃんの家にはまだ土間があったし、トイレはもちろんボットン式。風呂も薪で炊くタイプだった。
初めてクーラー、水洗トイレを日常的に経験したのは上京した90年代半ばくらい。

そこからすでに30年近く立っている現在からみると、たしかに「死」「汚れ」「臭い」は、都市化と時代で磨かれて、ツルツルした感じのものになったな、という感慨を得ています。

時代は巻き戻せないけど、いまから国内、国外をふくめて"辺境"には移動できると思う。そうすると、また、「死」「汚れ」「臭い」をぐっと近くに感じる生活になるのか? はたしてそれに耐えうるのか?

ちょっと、そこがわからないので、憧れてるけど、何もない山奥で暮らすというのに踏ん切りがつかない状態なんだと思う。
軒先の動物の死体、トイレの肥え、食料の発酵作業なんかに耐えれると思えない。

ちなみに、このまえキャンプに行った村では、村内放送で「◯◯さんが昨日亡くなりました。通夜は◯◯日で、◯◯寺で行われます」みたいな放送が流れていて、東京生まれ、東京育ちの小学生の娘が強烈に怖がっていた。
これも、死の臭いが消えた都市と時代に生まれた人間の実感値なのかな、と思ったのです。

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