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アカウントがあることすら忘れていたとある日に、noteをはじめて4周年ですという通知が、お祝いのバッジとともに届いた。なんとも律儀。
久しぶりにログインをしてみたら、アパレル時代に書いていたブログの編集後記的なものをコンテンツ化した記事がいくつか上がってる。それを読んで声をかけてくださった人もいたなあと感慨深くなる一方で、どうしようもなく拙い言葉で書かれたそれらに恥ずかしさを覚えて、一旦全て下書きに。

ウェブメディアのいいところは、失敗したり、恥ずかしかったり、何か起こってしまった時には、まるでそれがなかったかのように消し去ることができること。物体として刊行した書籍などだったらこうもいかないだろうなと思いながら、ウェブの本当に良いところってなんだろうと考える。

ウェブを主戦場としておきながら、本当はものが好き。身体の延長線上にあるような気がしてとても愛着が湧く。写真集だって、エッセイだって、物語だって、物質化した状態になったもので手元に置いておきたい。そして、たまに気が向いたならばパラパラっとめくりたい。昔に読んだ時には全く目にも留まらなかったような言葉が、何かの折にふっと目に飛び込んできて、金言のようにキラキラと私の目に刺さる。痛い、眩しい、でも見たい、目に焼き付けたい。心にそっとしまって温めたい。

要は好みの問題でしかなく、データとなったものたちは後から見返すにしても検索がしやすい。キーワードをタイプしたらすぐに目当てのものが見つかるし、なんならその周辺領域にあるものすらも提案してくれたりする。効率そのもの。「こんな感じの言葉を確か原研哉さんが言ってたんだよなあ、どの本だったかなあ」と思って片っ端からありとあらゆる頁を繰る必要なんてないんだよな。でもそのどうしようもなく無駄な時間の中で思いがけず新しい言葉に出会ったりするもんだから、結局やめられれないんだよな。



ところでこの夏はいつも以上に登山に行き、2泊や3泊の縦走もした。雨に見舞われて停滞を余儀なくされたときは、いちばん近くにあった山小屋まで文字通りずぶ濡れどろどろで向かい、ドアを叩いてどうにか中に入れてもらった。そこで凍える身体を温めながら、置いてあった本を適当に手に取っては眺めていた。昔の山雑誌では、『地図読みを学ぼう』という特集もあり、誰がこんなの好んで読むの?ちゃんと売れた?と思って面白半分見てみたら、内容の充実度に感動した。どれだけの労力をかけたのだろう。

山の夜は早いので、どれだけ計画通りに宿泊地(テント場)についても、ご飯を食べてしまえばあっという間にあたりは暗闇に襲われ、やることといえばお酒を飲むか寝るか、本を読むかしかない。たくましい大人たちは宴会をしていたりもするけれど、疲れた身体ではそんなにお酒も楽しく飲めないので結局寝袋に入って本を読むのみとなる。なので山にはいつも本を持っていく。電波も入らないし、充電だって好きな時にできないので、やっぱりここでもなんだかんだで物質化されたものが必要になる。

アプリで登山地図もダウンロードできるし、GPSで自分達のいるところを的確に示してくれるし、来た道にポイントを打ってくれたりするのは本当に便利で、スマホがなければもはや山登りできないかも!と思う一方でやっぱりスマホだけではだめなのだ。今紙の地図を持参する登山者はどれくらいいるのかな?(さすがに私も紙地図は持っていない)

そんな感じで、「せっかく自然の中で読書するんだし、少しでもそれっぽい本でも読もうかな」と意外と時間をかけて選書して本を持っていくのにも関わらず、心の高ぶりのせいなのか目がぎんぎんにさえて、読んでも読んでも話が頭に入ってこない。かたちとしては進むんだけど、ただの時間の浪費と言わざるを得ない。どうせ帰りの特急列車とか、都会に戻った時の移動時間とかで同じところを読み直している。グラム単位で荷物を絞ってパッキングする中に大切に本を入れてくるのに結局これだ。

そうこうしてればなんだか眠くなってきて、うとうと眠りかけては周囲の小さな音でハッと目が覚めたりして、なかなか熟睡できないけれど、気がついたらあっという間に朝4時前。夏山だったらちょっと朝の光が見えそうな、空気の変化があるくらいの時間。出発の準備を始めている人も多い。そして5時すぎにはご来光の時間。そんな狭間の05時07分。


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