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経験したくてやってきた

最近、友人から
『ゆうかさん、色んな経験をしてるんですね。
色々意外でびっくりです』と
言われることがある。


確かに、人生前半戦はなかなかのハードモードだった。

一歳にして、父から捨てられて、
養子となり、育ての父のDVに日々泣き果てて

父は私たちへの直接的な暴力は無かったものの、
母に対してのDVを見ることこそ、辛いものはなかった。

一度だけ、このままじゃ母が死んじゃう!と思って、私が身体で制止しようと入った時に、私の腕にガッと父の爪が入った。

あれが最初で最後に受けた身体への傷だった。

それでも不思議なもので、
10歳まで、養父である父を父だと疑うことなく、
無償の愛に溢れていた。

怖くて仕方ないのに、大好きだった。

幸せな家族の概念なんて、その頃には分からなくて、
生まれた時から、私はそれが家族なんだと信じこんでいた。

だから、大袈裟かもしれないけど、
親がもし、何か罪を犯して捕まったとしても
私にとっては唯一の親で、味方でいる自信があった。

子どもの頃、
遊びに連れていかれる場所はパチンコ屋だった。
妹と2人で落ちてるパチンコ玉を拾っては、
父の横に行って、打ち方を教えてもらってた。

そのうちに父から『好きなおもちゃ選んできていいよ』と言われて、

景品コーナーで、おもちゃを選びに行った。
(幼少期の遊び場がパチンコ屋だなんて、
今じゃありえないw)

欲しいものは何でも手に入った。
大してほしくない流行りのゲームも、
発売日となれば、買って帰ってくる父だった。


毎日のように袋いっぱいのお菓子を買って帰ってくる父だった。


父の愛情表現はいつだって物質的だった。

ものの豊かさこそが、幸せの証だったのかもしれない。

そんな不器用な父の愛情を感じていたからこそ、
嫌いになれなかった。

10歳で、父が養父だと知ってからも、
私は父を好きでいた。
だからこそ、自分は血が繋がっていないことが
寂しくて仕方無かった。


『私は誰?何のために生まれてきたの?』
自問するようになり、
その話し相手になってくれるのが
ノートだった。

私の問いに答えてくれるのが、私、だった。

今となってはそれがジャーナリングの始まり、だったと思うんだけど、

相談相手はいつだって、自分しか居なかった。

だから、誰かに頼るって方法が分からなくなった。いつしか純粋に人を信じることができなかった。


人生の半分は葛藤だらけの日々だったのだけど、
今となっては、

この全ての感情を味わいたくて、経験したくて
やってきたんだなぁ、と思っている。

だから全ての出来事に感謝しているし、
今度はそれが誰かの何かの役にたてたらいいと思う。


誰しもみんな何かの役割をもってやってきて
無駄なことなんて一つもないんだよね。





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