しろやぎさんとくろやぎさんの考察

やぎさんゆうびんという曲をご存知だろうか。確かそんな曲名だった気がするが、正しい曲名は覚えていない
しろやぎさんとくろやぎさんがお手紙を出しあうも、内容を読まずに食べてしまい、ォョョ❓となる内容だ。
しかしこの曲にはどうしようもない違和感がある。
よくみんなが言っている「どうして読まずに食べたのにくろやぎさん しろやぎさんからのお手紙だと分かるのか」などといういくらでも理由のつけられそうなものとは想像を絶する恐ろしい問題をこの曲は抱えている。
順を追って見ていこう。
まず1番

  しろやぎさんからおてがみついた
  くろやぎさんたらよまずにたべた

ここまでは何もおかしいところはない。ヤギは実際には紙は食べないが、この曲の世界観の中ではヤギは紙を食べる存在として歌われているというだけの話である。

  しかたがないのでおてがみかいた
  さっきのてがみのごようじなあに

ここまでも別におかしくない。この世界のやぎさんたちは文字が書けるのだ。どのような世界観にするかはその曲を作る人の自由であるのでここは問題ではない。
次に2番

  くろやぎさんからおてがみついた
  しろやぎさんたらよまずにたべた

ここまでもいたって普通である。おてがみがきたときに「読まなければ」という気持ちよりも「食べたい」という気持ちが先行してしまったのだろう。

  しかたがないのでおてがみかいた
  さっきのてがみのごようじなあに

問題はここである
1番の歌詞を見ればわかる通り、先におてがみを出したのはしろやぎさんのはずである。であれば、しろやぎさんからきたおてがみの内容は、自分が送ったおてがみに対する返答であると受け取るのが普通では無いのだろうか。
もし仮にこのしろやぎさんが「自分の要件とは別に新たな内容のおてがみをしろやぎさんが送ってきた」と考えているのならば、ごようじなあに とおてがみをかくのもありえる話だが、おてがみの内容を気にする素振りも見せずにパクパクおてがみを食べてしまう知能の低いしろやぎさんにはそんなことを考えておへんじを書く頭はないだろう。
もし自分がおてがみを出したことも忘れてしまうほどに知能が低いのならばありえるかもしれない。だがこのやぎさんたちは「おてがみ」という概念を知っていて、それを普段から利用しており、さらに「文字」を書くこともできるのだ。もしかしたら、我々が想像している「文字」とは全く違う形のものかもしれないし、「おてがみ」というのが「ペン」と「紙」で成り立つそれであるという確証もない。
だが、そうしてお互いに連絡を取り合うツールを利用出来る程度には知能があるのだ。
知能はあるが、自分自身の欲求に耐えることはできないためおてがみを食べてしまうのだ。理性と知能は別物である。
そうなってくると、最初におてがみを書いたのが「しろやぎさん」ではない可能性がある。
先におてがみを書いたのがくろやぎさんだったとしたら?
そう、この曲が始まる前からおてがみのやり取りが続いている可能性があるのだ。
これがこの曲の怖いところである。
2人の「始まり」がわからない。曲が始まる前からおてがみのやりとりをしていたとして、それはいつから?
終わらないこのやりとりがもう当たり前になり、感覚が麻痺してしまうほどの年月。こんなにも続くのならば直接会いに行った方がはやいということに気づけないほど思考能力が衰えてしまうくらいの年月。おそらく、我々が創造し得る時間を遥かに超えた月日が流れているのではないだろうか。
栄養を「おてがみ」でしか取れていない可能性もある。この曲には「おてがみ」と「やぎさん」以外には何も出てこない。「かいた」と言っているので書くための何かもあるはずだが、それはなんなのか分からない。体液で書いている可能性もある。
また、確実にお互いに届いていることは確かなので、間に仲介者がいることも確実である。郵便屋さんなのか、同居人なのか、通りがかった見ず知らずの人にお願いしているのかはわからない。
お互いに直接届けている可能性は低いだろう。もし会いに行っているのであれば、何度も繰り返すうちに今言えばいいか、と気づく瞬間が来るはずであるし、そもそも直接渡しているのであれば「よまずにたべた」瞬間を確実に見ることができる。なぜなら、「後で読もう」と思っておてがみを置いておけるようなやぎさんなら、読んでから食べるという選択肢がかならず頭にチラつくはずだからである。置いておいてあとから食べることが出来るやぎさんなら、もっと理性を働かせられるというわけだ。

結局いつからおてがみのやり取りが続いているかは謎に包まれたままだが、唯一解決する方法がある。
それは、世界五分前仮説だ。
世界五分前仮説とは、この世界は全て5分前に作られた、というものだ。過去に経験したと思い込んでいるその記憶や、10分前に運動したことでまだ引かないその汗は、全て5分前にこの世界に想像された、とする仮説である。
この説の秀逸なところは、証明も出来ないが否定もできないところにある。なぜなら誰もその記憶が5分前に作られたものではないことを証明できないからだ。
この説が正しいとするならば、しろやぎさんとくろやぎさんにも「始まり」なんてものはそもそもなく、おてがみのやり取りをしているという状態だけが5分前に作り出されたのかもしれない。
は?私明日仕事なのに、休みのおねえちゃんとお父さんとお母さんがお出かけの予定立ててる。ずるい。私にもっと気を使えよ
許せん もう書かない!フン


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?