日記(9/9〜9/15)

月曜日
 車社会で生まれ車社会で育った車社会の申し子みたいな人間なのに、運転がヘタクソというのはなんだか悲哀がある。多少は上手くなっていると思うが、事故を起こす悪夢にうなされる程度には苦手意識が拭えない。極力車に乗らずに人生を終えられるといいなと思った。

火曜日
 詩という存在に触れることができたのはささやかなラッキーだったなと思う。
 別に詩に出会わなくても人生に大きな変化はないような気もするし、なんなら詩に出会わなかったほうが貴重な高校時代にもっと勉強とかに注力できたかもしれないと思うこともある(詩に出会わなくても勉強はしなかったかもしれないけど)。詩との出会いが人生で出会う他のできごとと比べなんらかの優越性があるとは思っていないし、そこまで詩を信じていない。
 けど、他者によって誠実に紡がれた文字列を追っているとき、精神のとても素直なところに住んでいるディズニーの海亀みたいなやつがとても素直に「最高だぜ〜」と言いながら前腕を上げている。そういう精神の素直な動きに度々出会わせてもらえるのはありがたい。
 今後も自分の視界のどこかに詩が入っているといいなと思う。詩に限らず色々な文学や芸術とか表現にそういう亀は住んでいるけど、詩で亀を感じられる機会が限定されたものだとしたら嫌だなと思う。誰かの瀕死の亀が「最悪だぜ〜」と喘いでいたり、もしくは中指を立てて去って行ったりするような海だったら嫌だ。海亀の保全活動ではないけど、何か還元できるような、新しい関わりをちょっとづつ模索したいところ。これだけ書いてもぜんぜん具体的な案とかは思いつかないし、むずかしいことだけど。別に自分で発案したりすることにこだわらず、ほかの人のいい企画には乗っかっていったりしたい。

水曜日
 自動車学校に通い出してからずっと肌荒れしている。日焼け止めを塗っていたのに日焼けもした。
 最近友達にすすめられた『北越雪譜』を読んでいる。雪道を歩く道具や雪にまつわる地域の言葉、雪かきしてもすぐに積もる雪に苦労する人々の姿など。

木曜日
 車校を卒業。事故を起こさず終われてよかった。

金曜日
 ゴーヤをチャンプルーにして食べる。ゴーヤを見ると小学校のある教員を思い出す。毎年校庭の一角で熱心にゴーヤを育てている先生で、まあそれは全然構わないのだが、問題なのは一部の生徒に対してやたらと当たりが厳しいことだった。何かスイッチが入ると嫌いな生徒に対してねちっこく叱責するタイプの人が、やたらと愛情と丹精を込めてゴーヤを、ーーアサガオとか、トマトとかではなく、よりにもよってゴーヤを育てているのは小学生だった私にとってなんというか奇怪であり(ゴーヤに罪はない、一応)、教員というより妖怪ゴーヤ育てとか、そういう存在なのではないかという気がしていた。なぜかこの先生に私は好かれていて、夏休みに学校に行くと満面の笑みで艶やかに実ったゴーヤを渡されるのである。ゴーヤにはなんら罪はない。嫌いな生徒に対する態度と、私やゴーヤに対する態度の落差に恐懼しながら、居心地の悪さとともに受け取ったゴーヤを手提げに入れて帰宅した。手提げ袋の重さと、先生の額の汗と眼鏡フレームが夏の日差しに光っていたことをやたら鮮明に思い出してしまう。

土曜日
 めちゃくちゃ変な夢を見る。以下、夢の話だが、京都か大阪かわからないが関西の都市を観光していて、街を歩くにあたりGoogle Map的なものを参照していたのだが、横に現地の人がいて、「関東の人間と関西の人間は歩き方が違う。なので関東人が関西を歩く場合、徒歩での所要時間はアテにならない」というアドバイスをくれるのである。夢の中では「へえ、さすがは関西、そんなこともあるのか」と妙に納得したのだが、起床してから「そんなわけないだろ」と思った。

日曜日
 どこに行っても混んでいる。買い物に行くと、情緒の領域まで資本主義的な価値観が進出しているのを感じてしまうことがあって、途端に冷めた気持ちになる瞬間がある。マーケティングに乗っかって精神の亀がイオンモールでハイになっても仕方ない面もあるとは思うのだが、亀のよろこびが自分の主体的な感情の動きなのか、それとも他の目的のために他者によってお膳立てされたものなのか、もはや見分けがつかないと感じることがある。私にそれを見分けることがそもそも可能なのか、見分けをつける必要がそもそもあるのか、という問いもあるが。

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