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小説 『めくる』

 忙しない日々が続くと、家のカレンダーをめくることさえも忘れてしまう。どうにもここ最近は、仕事もその他の事も考えることが多すぎて、色んな事に気を回せなくなってくる。気を抜けば明日着る洋服が無かったり、皿がシンクに放置されたままになっていたりする。ようやく色々が片付き、今日は久々の何もない日。何もないとはいえ、家事という仕事は必ずやらなければならない。忙しさにかまけてツケを貯めている場合は特に。
 ある程度の片付けをしながら、ふと壁に目をやると、カレンダーが6月のままだった。忙しいとはいえ、さすがに自律ができていないなと反省する。現在は師走、12月だ。夏と秋を飛び越して冬を迎えるほど長い間、このカレンダーは梅雨を指していたのだ。確かに現在、日にちの確認はスマートフォンか、スケジュールの確認なら会社のパソコンで行っていたから、紙のカレンダーなんてデジタルに完全敗北したアナログなアイテムなことは否めない。だがしかし、「一度購入したものを管理できていない」というところに、人間としての怠惰がにじみ出てしまっていて気持ちが良くないのだ。「これはまずい」とめくろうとしたとき、色々と思い出した。
 今年の夏は特に暑かったこと。仕事が忙しくなり始めたのが丁度この時期だったこと。ギターを買ったこと。

 そして、恐らく友人がもう亡くなっているのではないかということ。

 友人、と呼んではいるが、交流は頻繁にあったわけではない。僕のSNSのフォロワーの一人で、たまにタイムラインにギターの動画をアップロードしていたのを見かける程度で、多少のリプライを飛ばし合う仲だ。過去に一度、死に至りそうな投稿(内容の明言は避けよう)をし、数ヶ月顔を出さなかった時期があるが、夏、秋を飛び越えて冬を迎えてしまうほど長くはなかった、と、思う。
 半年、音沙汰がないのはもう、やはりそういうことなのだ。
 実は、彼は6月の初旬に、「ギターを売ります」という投稿をし、僕が購入したのだ。15万円くらいだった。取引は恐ろしいほどスムーズに執り行われ、6月中旬にはもう僕の家に届いていたのだ。
 エメラルドグリーンのレリック加工が施されたテレキャスター。購入後、デモ音源の制作をメインに使っていたが、バンドのライブにも使えそうだったので、9月頃からはほどんどのライブでこのギターにはお世話になっている。
 それから連絡は取っていないし、タイムラインにも現れていない。最後のツイートも6月中旬で終わっている。もしかしたら、僕が彼と最後に会話をした人間かもしれないし、彼の形見のギターを受け取ったかもしれない。本当に、僕でいいのだろうか。そんな思いがふつふつとわき上がってくる。もっと、彼の周りで持つに相応しい人間がいたのではないだろうか。
 カレンダーをめくる手を止め、ベッドに座り込み、おもむろに彼のアカウントと投稿を眺める。6月からさかのぼっていき、演奏している動画を眺めていく。もちろんその中に、今僕の所有物となっているテレキャスターもある。悲しむ権利もあまりないし、ただギターを正当な手段を踏んで購入しただけなので、悲しい気持ちで溢れさせるのは違う。はずなのだ。
 ひと通り見た後、僕は家事をそっちのけで、彼のテレキャスターをアンプに繋いだ。イコライザーのノブを目分量で上げ下げして、弦をつま弾く。が、鳴らない。正確に言えば、フロントピックアップが鳴らない。ギターが鳴らなくなる原因のほとんどがジャック部分(ギターにシールドケーブルを挿すところ)にあるはずなので、一度こじ開け、接点復活剤を塗布して、元に戻し、もう一度弾いてみる。が、鳴らない。別のアンプで試してみたり、シールドケーブルを変えてみたりしたが、鳴らない。フロントピックアップだけ鳴らない。これは困った。
 僕はギターを担ぎ、家を飛び出した。車で10分ほど走らせたところにある、個人経営の楽器屋に駆け込んだ。
 車から降り、戸を開く。カランコロン、と子気味の良い音が鳴り響き、奥から40半ばの男性がやってきた。
「ケンタくん、久しぶりだね」
「ご無沙汰です」
 へたくそな笑顔を浮かべて挨拶をした。
 彼がこのお店の店長だ。このお店とは長い付き合いになる。
 店長は、顎髭を弄りながら尋ねる。
「今日はどんな用時だい?」
「ああ、突然すいません。このギター、診てもらいたいんですけど……フロントピックアップが鳴らないんです」
 ギターを取り出して、店長に渡すと、店長が「どれどれ」と言いながら、色々の機器を取り出し、ギターを弄っていく。慣れたものと言わんばかりに、器用な手つきで計測したり、時に鳴らしたりして確かめていく。ひと通り終わったようで、店長が「ケンタくん」と呼ぶ。
「多分これ、フロントピックアップの中の芯線がダメになっちゃってるんだと思う。結構手汗とか色々の理由でここが駄目になることが多くてね……」
「それって治るんですか?」
「微妙。どうせなら取り換える方が良いと思うよ。どうする?」
 と、店長が提案してきた。一応僕のものではあるが……
「……一応、このギター、友人から買ったものなんです。何と言いますか、この状態から変えるっていう決心がつかないです」
「でもこれ、もう君のギターなんだよね? 買ってからどのくらい経つ?」
「半年……ですね」
 ふーん……と、テレキャスターをまじまじと眺める店長。眺めている時間はさほど長くないはずなのだが、無限のような時間経過があったように思えてしまう。「このギターさ、」と店長が話始める。
「結構使い込まれているんだなあ、って思うよ。前の持ち主の使用の跡なのかもしれない部分はもちろんあるし、これは勘だけれど、”君が使った”、”君のギターだ”、っていう跡が、ところどころにある。
 もうこれは、紛れもなく君のギターだよ。
 だから、君がこれからもこのギターを使っていくために……鳴らせる状態にすべきだと、僕は思う。……どんな事情があろうとも、ね」
 見透かされたかのように、きっと僕が心の奥底で欲しがっていた言葉を的確に言い当てられた。わかっていたことだ。踏ん切りをつけたかったのだ。いくらあの友人のことを思ったって、今のままでは音は出ないのだ。生きているのか、死んでいるのか、後者だとしても、僕にはそれを気にする資格がない。使っていた人が死んでしまったことおちおち憂いていては、この世の中にビンテージギターなど存在できない。これは、僕のギター。僕のテレキャスターなのだ。これは紛れもない真実で、音が出なくなった責任は僕がとらなければならないのだ。
「……やっぱり、僕のギター、なんすかね」
「もちろん。だって、ちゃんと買ったんでしょ? 君のだよ。で、どうする? たまたまピックアップは仕入れてあるけど」
「……じゃあ、お願いします」
 毎度、と笑顔を浮かべ、作業に入る店長。
 すまん、君のものだったギター、弄らせてもらうよ。


 前よりもローの質感が良くなって返ってきた僕のテレキャスター。その晩は一晩中弾き倒した。
 色々の事情とか、思いとか、そこに触れる資格とか、僕にはあまり関係が無くて、今持っているギターはまぎれもなく自分のもので、僕の音が出る。ファーストオーナーが生きていようが死んでいようが、僕はこのギターを弾き続ける。
 そういうものじゃないか、ギターって。

 ギターの休憩がてらSNSを眺める。と、こんなツイートを目にした。
『Yuuの親族です。Yuuは先ほど、息を引き取りました。生前交友があった皆様にはーーーー』
 どうやら、そういうことらしい。6月には亡くなっていると思っていたのだけれど、ギターを僕に売った後も、なんとか生きていたのだ。この日、ギターのピックアップを交換したタイミングで、彼は息を引き取ったのである。まるで、僕に託すかのように。バトンを渡すように。

 正真正銘、僕のものになってしまったのである。
 
 壁を見た。カレンダーはまだ6月だった。
 僕はカレンダーをめくった。

牛丼を食べたいです。