楽しい活動・楽しい組織
先日、本部の代表で行った男子部ビジョン会議では、「楽しい組織にしたい」という意見に賛同が寄せられました。
そこで、今回の企画では「楽しい活動・楽しい組織」について、御書や学会指導から考えていきたいと思います。
「楽しむ」と聞いて、真っ先に思い浮かぶのは「衆生所遊楽御書」とも呼ばれる「四条金吾殿御返事」です。
池田先生は、今年5月3日に発刊された『世界広布新時代の指針』に収録された講義の中でも、この御文を紹介されています。全部で6行だけの短い御書です。
一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり経に云く「衆生所遊楽」云云、此の文・あに自受法楽にあらずや、衆生のうちに貴殿もれ給うべきや、所とは一閻浮提なり日本国は閻浮提の内なり、遊楽とは我等が色心依正ともに一念三千・自受用身の仏にあらずや、法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし現世安穏・後生善処とは是なり、ただ世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず、賢人・聖人も此の事はのがれず、ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経と・となへ給へ、苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ、恐恐謹言。(四条金吾殿御返事、御書1143頁1行目~6行目)
〈現代語訳〉
一切衆生にとって、南無妙法蓮華経と唱える以外の遊楽はありません。
(法華経如来寿量品第十六の)経文に「(仏の住むこの娑婆世界は)衆生の遊楽する所である」とあります。この文こそ、自受法楽を表す文ではありませんか。
「衆生」の内にあなたが入っていないことがあるでしょうか。
「所」とは一閻浮提です。日本国はその閻浮提の内です。
「遊楽」とは、私たちの色法(物質的·肉体的側面)も心法(精神的側面)も、依報(環境)も正報(主体)も、ともに一念三千であり、自受用身の仏ではありませんか。
法華経を持ち奉る以外に遊楽はありません。(法華経薬草喩品第五に言う)「現世は安穏にして、後に善き処に生まれん」とはこのことです。ただ、世間の難が起こっても、とりあってはなりません。
賢人や聖人も、このことは逃れられないのです。ただ、奥さんと酒を飲んで南無妙法蓮華経と唱えておいでなさい。
苦をば苦と悟り、楽をば楽と開いて、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経と唱えておいでなさい。これこそ自受法楽ではありませんか。
いよいよ強盛な信心をしていきなさい。恐恐謹言(手紙の結びの言葉)。
時間も限られていますので、今回は「衆生所遊楽」と「自受法楽」という言葉について学んでまいります。
まず「衆生所遊楽」とは、法華経如来寿量品の自我偈で、この娑婆世界(現実世界)こそ寂光土であると説かれ、苦悩が充満する現実世界こそが、衆生の最高の遊楽する場所であると明らかにされた言葉です。
戸田先生は、この言葉を踏まえて、次のように語られました。
『われわれは何のために生まれてきたのか。衆生所遊楽とて、遊びにきたのである。楽しまないのはかわいそうではないか。真の信心の頂点は、生きていること、それじたいが楽しいのでなければならぬ。』
池田先生は、子育て世代のお母さんとの対話で、次のように語られています。
『この「遊楽」とは、“うわべの楽しみ”とか“うわべの幸福”のことではありません。仏法でいう「遊楽」とは、生活の中で、現実の社会の中で、自分を輝かせ、自在に乱舞していくことを意味しています。
あたかも“波乗り”を楽しむように、人生の苦難さえ「喜び」に変え、「希望」に変え、人生そのものを、太陽のごとく気高く、さん然と光り輝かせていく生き方なのです。』
(『池田大作全集』第62巻「21世紀への母と子を語る」)
人生の目的は「楽しむこと」であり、そのためには、苦難さえも楽しみ、宿命すら「財産」にする力強い生き方が必要となります。
次に、「自受法楽」とは「自ら法楽を受ける」ということです。「法楽」は、永遠不変の妙法を味わい、その力と智慧を楽しみきっていくことです。反対は「欲楽」といって、さまざまな欲望を満たして楽しむことです。欲楽は、一時的に幸せだと思っても、表面的な喜びであり、生命の奥底からの歓喜ではなく、消え去ったあとは、かえって不幸と不満を感じるものです。
池田先生は、『「自受」の二字を心に刻んでおきたい。』と言われ、次のように講義されています。
『「自分が受ける」のです。人ではありません。人が幸福にしてくれるのではない。自分が自分で幸福になっていくのです。
ゆえに人をうらやむ必要もない。人を恨む必要もない。人に頼る必要もない。全部、“自分がどうか”です。自分で自分の人生を、どのようにでも決定していけるのです。』(『永遠の経典「御書」に学ぶ3』)
「衆生所遊楽」と「自受法楽」が、『楽しい活動・楽しい組織』のためのキーワードとなりそうです。大聖人は、南無妙法蓮華経と唱えることが「遊楽」であり、「自受法楽」であると教えてくださっています。
さらに、別の角度から今回の御書を深めていきます。
アメリカSGIを取材した書籍『アメリカ創価学会〈SGI-USA〉の55年』(秋庭裕著)では、ユダヤ教の下に育ち、SGIメンバーとなった女性が、この御書をユダヤの人たちに紹介して感動を広げたエピソードが綴られています。
ユダヤ教では、厳格な戒律が重視され、苦難は神が与えた試練であるから応える使命があると考えるそうです。そのため、御書の「遊楽」(enjoy)や「楽」(joy)、また「女房と酒うちのみて」という言葉が、宗教の教えとして語られると、 それらを肯定された経験のないユダヤの人たちはびっくりして感激し、絶賛したそうです。 この御文が、ユダヤの人びとに感動を与えた理由は、現世を肯定的に捉え、自分の人生を積極的に生きることを促す日蓮仏法の思想にある言えます。
これは、未活動のメンバーを糾合して「楽しい組織」を築いたり、友人を折伏することにも通ずると思います。
一般的な日本人が宗教に持つイメージは、辛い現実から離れ、歴史ある神社仏閣を訪れることに「癒し」や「安らぎ」を求めるものだったり、困った時や人生の特別な機会に関わるだけのものだったり、「日常」から切り離された「非日常」です。だからこそ、「今の自分には必要ない」と思ったり、「組織で活動したら自分を変えられてしまいそう」という先入観を持ったりして、なかなか活動に踏み切れないのではないでしょうか。
しかし、日蓮仏法は、今の日常を肯定的に捉え、自分の人生を積極的に生きるためのものです。この「衆生所遊楽」の世界を広げていきたいと思います。
もう1つ、全く別の観点ですが、「楽しい活動・楽しい組織」には、「納得の対話」が重要だと思います。
戸田先生は、大阪事件で池田先生の不当逮捕を糾弾した東京大会の際、なんと四万人の参加者に対して質問会を行いました。
佐藤優さんの連載『池田大作研究』の今週号(「AERA」8/10-17号)で、小説『人間革命』のこの部分が引用されていて、とても印象に残ったので紹介させていただきます。
『最後に、戸田城聖の指導となった。彼は、この日は、一方的な話に終わることを憂慮し、質問会とした。
戸田は、この権力との闘争は、全員が心の底から納得し、立ち上がってこそ勝てる戦いであると考えていた。
一人ひとりに、いささかでも疑問やわだかまりがあれば、勇気は湧かないし、本当の力を出すことはできない。偉大なる戦いの成否を決するものは、きめこまやかな納得の対話である。対話に尽きる。
人間の真実の理解というものは、水が地中深く染み渡るような、命に染み入る語らいを通してのみ可能となる。そして、そこに決意も生まれる。勇気もみなぎる。
戸田城聖が、質問会に踏み切ったのは、皮相的な指導にとどまり、同志の心が深くかみ合うことなく、空転することを恐れたからである。』(『人間革命』第11巻「大阪」)
コロナ禍において、今後も新しい形で学会活動を進めていくことを余儀なくされますが、一人ひとりが「楽しい活動」を実践し、「楽しい組織」を築いていくには、どこまでも納得の対話の積み重ねが必要だと感じます。私自身、一方的な発信になってしまいがちですので、オンライン部活や個人的なやり取りで、皆の率直な思いを聞いていきたいと思います。よろしくお願いします。
最後に、「楽しい」ことが組織の拡大につながり、「楽しい」ことが活動の指標になることを教えられた先生のご指導を確認します。
『生命の歓喜、躍動があり、根本的に楽しいから、人が集まる。「楽しい」ということが、仏法が生き生きと脈動していることの偉大な証明なのです。』(法華経方便品・寿量品講義(上)135ページ)
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